中央社会保障学校2日目、午前中は伊藤真弁護士の「憲法9条と25条をどう活かしていくか~今こそ「憲法の力」をつけよう!~」というタイトルの講演が行なわれました。5月の講演と重なる部分も多かったのですが、新たな情報もありますので概要をまとめてご紹介したいと思います。
まず、今がどういう時代かというテーマから講演は始まりました。50年前、社会保障を切り捨てて再軍備を進めるという政府の政策転換がありましたが、現在はその時と同じ状況にあります。約50年前の1957年に生活保護費のカットを巡る朝日訴訟が提訴されました。これは「人間裁判」と呼ばれ、憲法25条を学ぶ上で不可欠の裁判であるとされています。同年、立川の米軍基地反対運動に参加した人達の基地内立ち入りを不法侵入とした砂川事件が起こり、1959年3月に、日米安保条約は違憲であり、外国軍も憲法が否定する戦力であるとして被告を無罪とする伊達判決が下されました。しかし、最高裁判事と米国高官との密談(米国公文書の発見で明らかになっています)で政府は跳躍上告を決め、1959年12月に最高裁で安保条約は合憲だとする判決が出され、1960年の安保条約改定を可能としました。
これらの経過は、市民社会と軍隊は相容れない存在であるということを示しています。ドイツの憲法では、「軍隊の民主化」を行ない、人権に反するような上官の命令を拒否する権利を軍人に与え、軍隊を市民に近づけようとしましたが、日本では軍隊の民主化は不可能であると考え、9条によって軍隊を否定しようとしました。しかし50年前に、そして現在でも、軍備増強のために社会保障を切り捨てるという状況が生まれています。現在は、アメリカでは60億円で買えるF15戦闘機を120億円で購入したり、アメリカでは19億円で買えるC130輸送機を50億円で購入したり、米軍のグアム移転のために現地価格では1戸当たり190万円の住宅に対して1戸当たり8000万円が請求されたりしています。
社会保障は憲法の根幹であり、時代や社会の情勢によって左右されないよう、国の方向性を明確にすべきです。
名古屋高裁のイラク自衛隊派遣違憲判決では、イラク戦争支援を続けている国は世界においても少数派となりつつあり、民間人被害の増加から軍事力は治安の改善に役立っていないという事実が明らかになり、非人道的兵器の使用が批判されていますが、日本の行なっている多国籍軍兵士輸送によりバクダッドの被害が激化しており、日本は加害者として戦争に加担しているということを国民がもっと認識すべきであるということが示されました。判決文の中では「平和憲法」という表現が使用され、平和的生存権は具体的な人権であるということを認め、平和を望む市民としての控訴人に対する共感が示され、控訴人の行動は間接民主制下における政治的敗者の個人的な憤慨、不快感又は挫折感等にすぎないなどと評価されるべきものではないと判断しました。それに対して政治家は、「傍論である」とか「関係ない」などと言いましたが、それは法律をわかっていない発言です。傍論とは、その後に同様の裁判が起こった時に裁判官が影響されるかどうかの問題であって、政治家が判決をどう判断するかとは別問題です。政治家の発言は、「裁判所の判断に敬意を払わない」ということを主張しているものであり、政治家による司法の権威の否定です。
普天間基地の爆音訴訟では400人が原告となりましたが、損害賠償は認められたものの将来の被害に対する損害賠償と夜間早朝飛行の差し止めは否定されました。理由は「公益のために必要だから」というものであり、その公益とは安保条約や地位協定を優先するということです。
戦前の日本と戦後の日本の違いは、戦争のために教育、宗教、地方を利用した国から、教育内容に介入せず、政教分離の原則を守り、地方自治を保障する国になるということです。地方自治体は国が住民の権利を奪おうとした時、住民を守る存在とされました。そして、貧困を打破するための戦争という位置づけや国家に奉仕するための国民という考え方から、一人一人の国民の幸せのために国家が奉仕するという考え方への転換が行なわれました。しかし、安倍内閣で教育基本法が改悪され(憲法尊重と個人尊重の削除)、防衛庁が防衛省に格上げされ、憲法改正手続きの国民投票法が成立したことにより、戦後日本の体制は変わってきてしまいました。教育基本法にはかろうじて「日本国憲法の精神を尊重すること」が残されていますが、自民党は改憲により、「日本国憲法の精神」を変えることを目指しています。
では、そもそも憲法とは何なのか。法律は多数の人々の意思に従っているから正しいというのが一般的な考え方ですが、国民の多数派の意思に従っても間違うことがあります。たとえば、治安維持法も国会議員の賛成多数で成立し、ナチス政権も失業対策や母子家庭保護や大衆車の普及などによって、多数の国民に支持されました。多数派も間違えることはあり、歯止めをかける必要があります。その、多数派の意思でも奪ってはならない価値が人権であり、それを保障するのが憲法です。よって、憲法は国家権力を制限し、人権を保障するものであると言えます。こうした考え方を立憲主義と呼びます。日本は立憲民主主義の国家であり、これは憲法によって民主主義の自己抑制がなされている国家体制です。
法律は国民の自由を制限し、社会の秩序を維持するために義務や責任を課すものですが、憲法は国家権力を制限するものです。そして、国民が統治の主体であり、国民には国家に憲法を守らせる義務があります。国家を運営する天皇、国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員は、憲法を尊重し擁護する義務を負います。
憲法は多数派、強者に歯止めをかけて、少数派、弱者を守るためのものです。よって、多数派、強者には憲法の価値はわかりにくいのですが、経験したことがないことでも共感と想像力で理解し、相手の立場に立って考えることが必要です。たとえば、駅のフォームの点字ブロックやシャッターは、大多数の人間には関係ないものですが、目の見えない人にとっては必要不可欠なものです。経済的な効率だけでは測れないものが人権であり、それを実現するのが福祉です。そのように、少数派、弱者にとっての必要を理解することが憲法の価値を理解することにつながります。
これは国家間の紛争や国際貢献でも同じことであり、こちらの見方を押し付けるのではなく相手の立場に立つことが必要です。テロの原因を考え、それを無くそうとしているペシャワール会の活動は、そういった立場に立ったものです。
また、憲法における重要な概念として個人の尊重があります。これは、人はみな同じく人として尊重されるべきであるということと、人はみな違うのだから個として尊重されるべきであるということの両方を含んでいます。どんな人間でも人間であるというだけで生きる価値があり、社会や国家の利益のために個人が犠牲にされてはなりません。そして、自分の幸福とは自分で定義するものであり、多様性を認めて共生していく社会を目指すことが必要です。
幕末に権利という概念が日本に入ってきましたが、その当事は「権理」と表記されていました。これは、「正しい」という概念を含んでいます。英語の権利「right」に正しいという意味もあることと共通しています。人権とは正しいものであるということを主張し続けることにより、人権は普遍的な価値として保たれるのです。
人権には、人間の精神活動の領域には国家が介入してはならないという、国家からの自由と、経済活動の領域には国家が積極的に介入して格差是正のために弱者の救済に努めるべきだという、国家による自由の、二つの側面があります。後者が社会権と呼ばれるもので、それを保障するのが社会保障です。
しかし今、そうした国家のあるべき姿が逆転しています。国家は愛国心を育てるためとして人間の精神活動の領域に介入し、その一方で就学援助や障害者支援や生活保護などをカットし、弱者を犠牲にして強者の利益を拡大してきています。負け組は無能な人間だという偏見や、障害者や高齢者やお荷物であるという差別意識を生み出し、国家のためになるという価値観を信じ込ませて低所得者に戦争を待望させるという貧困の利用が行なわれています。
このままでは、日本は憲法の価値を実現する国家として、正しい方向に進めなくなるという状況です。それを避けるためには、国民の一人一人が正しい判断ができる力をつける必要があります。情報操作されないメディアリテラシー(メディアとの付き合い方)、正しい判断力を身につける必要があります。市場価値よりも生活価値、経済的価値よりも人間らしさの価値、企業の利益よりも労働者の利益、株主の価値ではなくステークホルダー(利害関係者)の価値を優先する考え方を身につける必要があります。国家は一人一人の人間のためにあり、主権者とは一人一人の国民であり、経済的自由よりも個人の尊重や生存権が優先されるべきです。
また、軍事力では国民の生命や財産は守られないということに確信を持ち、人道のための戦争などあり得ず、どんな名目の戦争もやってはならないということを確認し、政治が人の命を道具として使うことを許してはなりません。戦争でもっとも被害を受ける国民が主権者であるということから、私達は民主主義のルートによる平和の実現を目指すことができます。それは、国民主権のもと、国民が政府の行為によって戦争が起こることのないように政府を監視する義務を負っているということです。また、人権のルートによる平和の実現を目指すこともできます。それは、一人一人が人権として平和を主張して司法の場で平和を回復する仕組みであり、それを保障するのが平和的生存権です。平和的生存権は、平和の反対が単なる戦争ではなく、恐怖や欠乏から免れることでもあることを示しています。生存権、貧困とのたたかいは、平和的生存権を守るたたかいでもあります。
憲法は理想ですが、理想と現実が食い違うからこそ憲法が必要となります。たとえば、殺人がなくならないからと言って刑法から殺人罪を削除することがないのと同様です。一歩一歩でも現実を理想に近づけることが、主権者である我々の責任であり、憲法を学んだ者の責任なのです。
以上、概要でした。少々後半が急ぎ気味になってしまってすみませんでした。
2008.9.6 誤字脱字などを修正しました。