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織田信長が好んだ幸若舞『敦盛』の一節「人間五十年、下天の内をくらふれば、夢幻の如く也」の読みや意味、気になってましたがこの記事を目にしたので、検証してみます。
乃至政彦「織田信長は「人間五十年」を本能寺で歌っていない!?『信長公記』「天理本」とほかの写本を比べてわかる真相」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70835
この記事にあるように、最近「人間五十年」の「人間」の読みは「にんげん」ではなく「じんかん」、「五十年」の意味は人の一生とか人生とかではなく人の世、という見解を目にするようになりました。
ウィキペディアにも同様の見解が示されています。
敦盛 (幸若舞)(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A6%E7%9B%9B_(%E5%B9%B8%E8%8B%A5%E8%88%9E)
「「人間(じんかん、又は、にんげん)五十年」は、人の世の意。 「化天」は、六欲天の第五位の世化楽天で、一昼夜は人間界の800年にあたり、化天住人の定命は8,000歳とされる。「下天」は、六欲天の最下位の世で、一昼夜は人間界の50年に当たり、住人の定命は500歳とされる。信長は16世紀の人物なので、「人間」を「人の世」の意味で使っていた。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、「人の世の50年の歳月は下天の一日にしかあたらない、夢幻のようなものだ」という意味になる。」
なお、ウィキペディアによれば、「一昼夜は人間界の50年」という「下天」は「六欲天の第1天、四大王衆天(四王天)」だそうです。
四天王(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B
しかし、『敦盛』について「じんかん」や「人の世」とする典拠が見当たりませんので疑問でした。
そこでこれを機会にググって見ると、「人間」の読みについて、Yaho知恵袋に「人間(げん)五十年」とするコメントがありました。
nak********さん
2009/3/19 20:31(編集あり)
『敦盛』の件: 謡曲の本、寛永版「舞の本」(国立国会図書館
の蔵整版より)によれば、以下の如くルビ仮名がついて居ます。
織田信長が好んでいたといわれる『敦盛』ですが、【人間五十年化天(下天... - Yahoo!知恵袋
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1424310734
それで早速国立国会図書館デジタルコレクションに飛んで、ブツを調べました。
タイトル『あつもり』 出版年月日 [寛永年間](国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541845
幸若舞『敦盛』のさし絵付きテキストで、33コマ目、「人」で始まる行以下に「人間五十年」のフレーズが変体仮名で書いてあります。
これは「人けん」ですね。「遣」を崩した変体仮名の「け」です。
こちらは変体仮名参考ホームページ。
変体仮名を覚えよう
https://web.archive.org/web/20170823023827/http://www.toride.com:80/~yuga/moji/kana.html
…というわけで、信長死後50年程度の寛永年間(1624年から1644年まで)には「人間五十年」は「にんげん」と読まれていたのは確実です。
ただし、「じんかん」と読まなかった証拠にはならないので、両方の読みがあった、という主張は可能です。
ただ、幸若舞『敦盛』のテキストで「じんかん」という読みがなければ「じんかん」派はやや不利ですね。
さて、「五十年」が人の一生とか人生とかではなく人の世、という主張については幸若舞『敦盛』そのものに関わる証拠は見つけられませんが、それがしの今川氏真詠草「野良」研究から興味深い検討材料をご紹介しましょう。
歳暮
老の浪あはれことしもこゆるきのいそちといはん限をそ思(幽71)
定をく命のきはの年の暮明日より後はさもあれはあれ(紹770)
何を待住居なるらん石上ふるかひとては年をかそえて(4―70)
それぞれ細川幽斎、里村紹巴、今川氏真の歌です。
本能寺の変があった天正十年(一五八二)の暮、一五三四年生まれの幽斎は来年数え年で五十歳か、と感慨にふけりました。
紹巴は幽斎の歌を見て、定命を迎える明日からはなるようになれ、と助言しています。
ということで、二人は「五十年」を寿命と考えていると見てよいでしょう。
氏真さんは、その数年後に二人の百首を書写して、同じ題で百首を詠みました。この歌も「いそ」=五十の上の年齢をどんなかいがあって「ふる」=年を取るのか、と問う歌で、五十歳が節目だと見ています。
幽斎は信長に仕え、紹巴も連歌師として、氏真も上洛して一緒に蹴鞠した時から信長と面識がありますので、信長も五十年を人の一生とか人生の節目と考えた可能性は大いにあります。
以上から、信長が「人間五十年」を「にんげん」と読み、五十年が人の一生や人生と、従来の解釈と同じ理解をしていた可能性も十分あると思われます。
一方、「じんかん」は仏教用語のの読みを、人の世は「下天」に関する知識をあてはめてみたもので、幸若舞『敦盛』や信長の同時代人の理解を示す史料はないのではないでしょうか?
以前このブログで取り上げた「天下布武」の解釈で、『礼記』にある「堂上接武、堂下布武」に着目する新説を取り上げましたが、それと同様偶然の見かけの類似にとらわれ過ぎかも知れません。
そういえば、『評伝今川氏真』や『評伝三条西実澄』(どちらもAmazon電子書籍販売中!)でも書きましたが、「天下布武」の「武」は、『春秋』の楚の荘王が「戈を止める武」や「武(武王)の七徳」を語って京観を作らなかったエピソードとの関連の方が強いと思われます。
(なお、立花京子氏は「七徳の武」としましたが、それがしは「武の七徳」としたのがミソです)
というわけで、「じんかん」派や「人の世」派の皆さんから、幸若舞『敦盛』や信長の同時代人の記録を用いた反論を期待し、それまでサガラは「にんげん五十年」で、五十年の人の一生は短い、という見解を維持することにします。
【おまけ】
ちょっと長いですが以下は歌の解説。
一番目は細川幽斎の一首。『衆妙衆』所収。『正親町天皇御製百首と同じ題で詠んだ百首の一。この歌は一五三四年生まれの幽斎が数え年で五十歳を迎えた天正十一年(一五八三)前後の詠歌。
浅田徹氏が「衆妙集冒頭の百首歌について--成立・異伝・表現」(森正人、鈴木元編『細川幽斎 戦塵の中の学芸』笠間書院)で詳説。
二番目は幽斎の親友連歌師里村紹巴が、天正十一年(一五八三)初冬に幽斎の百首に和して詠んだ歌。日下幸男『中院通勝の研究―年譜稿篇・歌集歌論篇』勉誠出版所収。
聖護院道澄(近衛前久の弟)、紹巴の師匠の息子で弟子で娘婿でもある里村昌叱、幽斎の婿で弟子でもある中院道勝と一緒に四吟百首を行っているとされる。
弟子の沙弥貞徳(松永貞徳)も同じ題で百首詠んでいる。
三番目が今川氏真の「百首」。『観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館)所収の「附 今川氏真全歌集」や和歌史研究会編『私家集大成7上 中世5上』(明治書院、一九七六年)に収録。
井上宗雄氏が『今川氏と観泉寺』所収の「今川氏とその学芸」で、天正十年代に氏真が幽斎と紹巴の百首を書写し、伊勢国神戸で綴り終わったと言及。
サガラが『評伝今川氏真』で氏真「百首」(作品4)の題が幽斎、紹巴の百首と同じと確認、三人の歌を比較しつつ解釈しました。
【拡散希望】ビスマルクは「賢者は歴史に学ぶ」とは言っていない!【ご注意を!】
一年ほど前のこと、
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
という言葉がドイツのビスマルクの名言としてしばしば引き合いに出されますが、
「ほんまかいな!?」
と気になっていたので調べました。
結論から言うと、確かな典拠は見当たらず、
英語のウィキクオートの「Discussion」から、『Le Dernier des Napoléon(最後のナポレオン)』という
フランス語(!)のナポレオン3世評伝
にたどりつきましたが、最も古いバージョンは「歴史に学ぶ」とは相違がありました。
ドイツ語のウィキクオートでは、「誤った帰属(Fälschlich zugeschrieben)」とされ、出典は英語ビジネス本のドイツ語版とされていました。
以下詳細。
【英語版ウィキクオートから】
まずは英語版ウィキクオートの「Discussion」はこちら。
Talk:Otto von Bismarck
「Bastetswarrior」さんが探索結果として3冊の本と翻訳をリンク付きで挙げ、「KHirsch」さんがいくつかのドイツ語バリエーションに言及し、「古いストア派の格言」「小セネカ」との関連を推測しています。
【ビスマルクの「愚者は~、賢者は~」に近い警句の最古の本はフランスの本!】
そこで最古の本に飛んでみると、フランス語のナポレオン3世評伝らしきものに到達。
Emile Kératry著『Le Dernier des Napoléon(最後のナポレオン)』(Paris、A. Lacoroix, Verboeckoven & Cie、1872年刊)240ページ
"Les sots prétendent qu'on n'apprend qu'à ses dépens.... J'ai toujours tâché d'apprendre aux dépens des autres."
とあります。
大昔に勉強したおフランス語は忘れちゃったので、グーグル翻訳先生にお助け願うと、
「愚か者はあなたがあなたの費用でしか学ばないと主張します。....私はいつも他の人を犠牲にして学ぼうとしました。」
となりました。「dépens」は「苦い経験」という意味の方がよさそうです。
とりあえず、「賢者は歴史に」云々ではありませんでした!!!
なお、この部分には注はありません。また、このフレーズの上にある他の国民への評言もドイツ語のウィキクオートではヒットしませんでした。
これには英語の抄訳もあります。
『Brownson's Quarterly Review』1875年刊、39ページ。
"Fools pretend that one learns only at his own expense; I have always striven to learn at the expense of others."
フランス原著の忠実な英訳ですね。
ちなみに、この本はブラウンソンさんが色々面白そうな文章を抄訳してまとめたもののようです。
そしてブラウンソンさんは最後に「Valedirctory(告別の辞)」を書いていて、
「疲れたんでこういうのやめる」
みたいなことを書いているようです。(爆!www)
肝心のドイツ語版ですが、ドイツのアマゾンで著者名Emile Kératryで検索すると、下記が見つかりましたが、1872年のドイツ語版古書そのものの画像しか出ず、現在入手不能なようです。
Der letzte Napoleon. Autorisierte Ausgabe Leather Bound – 1 Jan. 1872
しかし!ドイツの検証サイトをつたってグーグルブックスにたどりつきました。
Anonymus著『Der letzte Napoleon [III.]』(Teschen, Wien, Berlin und Leipzig、Verlag von Karl Prochaska、1872年刊)236ページ
著者が「Anonymus」となっていますが、同じモノです。
そして、こちらが236ページ掲載のフレーズ。
"Die Thoren behaupten, daß man nur immer auf seine eigenen Unkosten lernt .... ich habe immer gesucht auf Kosten anderer zu lernen."
グーグル翻訳先生によると、
「愚か者は、人は常に自分の費用で学ぶと言います。....私は常に他人の費用で学ぶことを目指してきました。」
フランス語とほぼ同じですね。
『Der letzte Napoleon』には「Verlag von des Originals」としてパリの「A. Lacoroix, Verboeckoven & Cie」が挙げられているので、フランス語版がオリジナルです。
なお、ドイツ語版にはこちらからたどりつきました。
ZITATFORSCHUNG(引用研究)
Donnerstag, 15. Februar 2018
"Nur ein Idiot glaubt, aus den eigenen Erfahrungen zu lernen. Ich ziehe es vor, aus den Erfahrungen anderer zu lernen, um von vornherein eigene Fehler zu vermeiden.“ Otto von Bismarck (angeblich)
https://falschzitate.blogspot.com/2018/02/nur-ein-idiot-glaubt-aus-den-eigenen.html
なお、この本は英訳とスペイン語訳もあります。
【二番目に古い本は英語の本!】
「Bastetswarrior」さんが見つけた二番目に古い本がこちら。
A Fellow Student著、Henry Hayward訳『Bismarck Intime: The Iron Chancellor in Private Life』New York、D. Appleton and Company、1890年刊、180ページ。
ビスマルクの伝記のようです。
"Fools pretend that you can only gain experience at your own expense, but I have always managed to learn at the expense of others."
とあります。
グーグル翻訳先生によると、
「愚か者はあなたが自分の費用でしか経験を積むことができないふりをします、しかし私はいつも他の人を犠牲にして学ぶことができました。」
こちらも「expense」は苦い経験あるいは失敗と訳すべきでしょう。
そして、こちらも「経験に学ぶ」とか「歴史に学ぶ」とか言っていません!!!
なお、著者名「A Fellow Student」は「一同級生」くらいの意味しかありません。
匿名のドイツ人の書いたものをヘンリー・ヘイワードさんが英訳した体裁ですが、ドイツのアマゾンで検索しても、英語の原著と仏語訳しか見つかりません。
アメリカ人(?)ヘンリーさんが英語で自分が書いたのをビスマルクの同級生(?)のドイツ人原著者がいる風を装って出版したんじゃないの???
という疑惑を感じます。
怪しい(爆2!www)
ちなみに学生時代のビスマルクの逸話を一つだけチロッと読んだのですが、
ブーツを注文して大きな飼い犬(マスチフ)を連れて靴屋に行ったら納期通りに作っていないのに腹を立てて
「明日できてなかったらお前をこの犬にむさぼり食わせてやる!」
とおどして去り、翌日
「ビスマルク様(Herr von Bismarck)のブーツはできたか!?」
と「オレ様」口調で上から目線で聞くとブーツは既にできていた、その後ビスマルクが何も言わなくても靴屋は必ず納期前に注文の品を仕上げるようになった、というお話でした。
「ビスマルクいい話、悪い話」みたいなノリですね!!!
【3番目に古い本も英語!】
「Bastetswarrior」さんは3番目に古い本としてF. Maurice著『War: To which is Added an Essay on Military Literature and a List of Books , With Brief Comments』(London, McMiran and Co. and New York、1891年刊)を挙げていますが、巻頭言として使っているだけで、出典はないようです。
"Fools say that you can only gain experience at your own expense, but I have always contrived to gain my experience at the expense of others."
こちらは「一同級生」さん著、ヘンリーさん訳とほぼ同じですね。
こちらもアマゾンドイツでドイツ語版は見当たりません。
ただし、Max Roediger?編『Deutsche Litteraturzeitung, 第 13 巻、第 1~13 号』の311ページ、「Nr.9」にはモーリスさんの『War』の紹介があり、ドイツ語訳もあります。
Narren behaupten, dass man nur auf eigene Kosten Erfahrung sammeln könne; aber ich habe immer versucht, meine Erfahrungen auf Anderer Kosten zu gewinnen.
グーグル翻訳先生によれば、
「愚か者はあなたが自分の費用でしか経験を積むことができないふりをします、しかし私はいつも他の人を犠牲にして学ぶことができました。」
とのことです。
「versuchen」が「試みる、努力する」という意味です。
……というわけで、英語版ウィキクオートにあるビスマルクの名言の最古のソース3冊は
フランス語または英語。
ドイツ語でさえなく、
「賢者は歴史に~」という類の言葉はなく、
愚者は自分の苦い経験(または失敗)だけから学ぼう(経験を積もう)とするが、自分は他人の苦い経験(または失敗)に学ぼう(経験を積もう)としてきた、
というような内容でした。
フランス語や英語の本がドイツ語に翻訳された時、このフレーズもドイツに入り込んできた可能性があります。
【ドイツ語ウィキクオートは一蹴、元ネタは英語原著!?ではない】
さてこちらがドイツ語版ウィキクオート。
https://de.wikiquote.org/wiki/Otto_von_Bismarck
シンプルに「Fälschlich zugeschrieben(誤った帰属)」として、
"Ihr seid alle Idioten zu glauben, aus Eurer Erfahrung etwas lernen zu können, ich ziehe es vor, aus den Fehlern anderer zu lernen, um eigene Fehler zu vermeiden."
グーグル翻訳先生によると、
「あなたは皆、自分の経験から学ぶことができると考える馬鹿です。私は自分の過ちを避けるために、他人の過ちから学ぶことを好みます。」
出典は
Robert D. Buzzell, Bradley T. Gale著『Das PIMS-Programm: Strategien und Unternehmenserfolg』1989年刊
https://www.amazon.co.jp/Das-PIMS-Programm-Unternehmenserfolg-Robert-Buzzell/dp/3409133437
さらに調べると、こんなページが出てきました。
https://docplayer.org/132407316-Robert-d-buzzell-bradley-t-gale-das-pims-programm.html
これによると同署の「Geleitwort(序文)」のVページの見出しに
,,Lernen aus den Erfahrungen anderer, um eigene Fehler zu vermeiden"1
とあり、注1が
1 Getreu dem Leitmotiv, we1ches unserem Eisernen Kanzler (Bismarck) zugesprochen wird: "Ihr seid alle Idioten zu glauben, aus Eurer Erfahrung etwas lernen zu können, ich ziehe es vor, aus den Feh-lern anderer zu lernen, um eigene Fehler zu vermeiden!'
"Ihr seid alle Idioten zu glauben, aus Eurer Erfahrung etwas lernen zu können, ich ziehe es vor, aus den Fehlern anderer zu lernen, um eigene Fehler zu vermeiden."
とあります。
グーグル翻訳先生によると、
「自分の過ちを避けるために他人の経験から学ぶ」1
1私たちの鉄首相(ビスマルク)に起因するライトモティーフに忠実です:「あなたはあなたがあなたの経験から何かを学ぶことができると信じるすべての馬鹿です、私は自分の過ちを避けるために他の人の過ちから学ぶことを好みます!」
とのことです。
それはともかく、PIMSなんとかの英語の原著が大元なのか???
確認してみました。
こちらが英語の原著。
Robert D Buzzell, Bradley T Gale 『The PIMS principles : linking strategy to performance』1987年刊
https://www.google.co.jp/books/edition/The_PIMS_Principles/i49zb983FfMC?hl=ja&gbpv=1
ちなみに著者Robert D. Buzzellは出版当時ハーバード大学のビジネススクールの教授とのこと。
まさかアメリカの先生がビスマルクの言葉を語った???
ここで大事なのが英独両版の目次の比較です。
ドイツ語版の目次はこちら。
https://www.google.co.jp/books/edition/Das_PIMS_Programm/4WzzBgAAQBAJ?hl=ja&gbpv=1
ドイツ語版には「Vorwort」の前に「Geleitwort von Jurgen Meyer」などがあるのに、英語版には「Preface」しかありません。
また、英語版では「Bismarck」で検索してもヒットせず、ドイツ語版でも上記ページVの注1の1ヶ所しかヒットしません。
つまり、ドイツ語版ウィキクオートで『PIMS』が出典とされるビスマルクの言葉はJurgen Meyerというドイツの経済学者が書いたドイツ語版序文にしかないと思われます。
ちなみにユルゲン・マイヤーさん情報も探したら見つかりました。
JURGEN MEYER - 5064 KLEINEICHEN
http://www.checkcompany.co.uk/director/6489710/JURGEN-MEYER
このページによると、ユルゲン・マイヤーさんは1953年4月生まれで(無駄に詳しいwww)、「PIMS EUROPE LIMITED」にいたが、会社は今は解散しているとのこと。
ご本人のリタイヤとともに廃業したのでしょうか?
ちなみにPIMSの本、日本語訳もあります。
『新PIMSの戦略原則―業績に結びつく戦略要素の解明』1988年刊
バゼル,ロバート.D.〈Buzzell,Robert D.〉/ゲイル,ブラドレイ.T.〈Gale,Bradley T.〉【著】/和田 充夫/八七戦略研究会【訳】
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784478370353
ちなみにフランス語版のウィキクオートもドイツ語版と同じでPIMSのドイツ語版を典拠としていますが、真偽については言及がありません。
https://fr.wikiquote.org/wiki/Otto_von_Bismarck
さて、『PIMS』ドイツ語版からは、ビスマルクに仮託された「愚者は~自分は~」という言葉には、「自分の過ちを避けるために他の人の過ちから学ぶ」という趣旨が一層明らかになったと思います。
言い換えれば、この言葉は日本のことわざで「他山の石」に近いニュアンスだと言っていいでしょう。
そしてこのフレーズは歴史には、まして歴史学には言及していません。
「賢者は歴史に学ぶ」をビスマルクの言葉として引用するのは、一次史料が見つからない限り避けた方がよさそうです。
【日本での調査は?】
なお、日本では島根県図書館が調べてますが、さかのぼれたのはリデル・ハート(1895*1970)の著作にあるほぼ同様のフレーズまでで、
「(3) これ以上の情報がないため、国会図書館へレファレンス調査依頼。」
で終わっています。
ドイツのビスマルクの「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉が載っている本がみたい(この言葉... _ レファレンス協同データベース.html
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000072088
しかし、続報らしきものは見つからず。国会図書館、どうした???
しかしもっと肉薄している人々がいました。
まずは「とぉ~く」さんの「ある格言の話……」という記事。
日本西洋古典学会のQ&Aコーナーで「愚者は自分の間違いから学ぶが、賢者は他人の間違いを見て学ぶ」といった西洋の格言についてQ&Aが見つかりました。
日本西洋古典学会「Q&Aコーナー 2016_06_06」
https://clsoc.jp/QA/2016/20160606.html
質問者はビスマルクの
「Nur ein Idiot glaubt, aus den eigenen Erfahrungen zu lernen. Ich ziehe es vor, aus den Erfahrungen anderer zu lernen, um von vorneherein eigene Fehler zu vermeiden.」
を例に挙げて質問しています。
しかし、回答者である京都大学文学研究科准教授河島思朗氏(https://researchmap.jp/skawashima)によると、
この類の格言を「古代まではさかのぼることは」できず、
下記ホームページをリンクしつつ、
イギリスの出版業界の人らしいH. G. Bohn(1796-1884)という人の言葉で
Wise men learn by other men's mistakes, fools by their own.
があるそうです。
The Wise and the Fools
https://creativequotations.com/tqs/tq-wisdom.htm
この回答ではビスマルクについては言及はありません。
以上は「とぉ~く」さんの記事から。
ある格言の話…… |とぉ~く
https://note.com/tooku_lj/n/n833dce2aada0
さらに、ビスマルクと歴史について、一番肉薄しているのがこちら。
IKAEBITAKOSUIKA 傳談喋話喩咄申誥紀 烏賊蝦八爪魚西瓜
「◆故事・名言・ことわざ…”愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ” オットー・フォン・ビスマルク◆」
http://ikaebitakosuika.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-f053.html
「とぉ~く」さんも言及していますが、国会図書館のビスマルク本から、ビスマルクの歴史に関する警句を見つけています。
よく見つけたなあ(感心)
蜷川新著『ビスマルク 全 英傑伝叢書 第2編』(実業之日本社、大正6年(1917年)刊263ページ(150コマ目)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951601/150
「歴史研究の必要」として、
「余には、歴史は何ものかを學ばしむる爲に存在す」
云々と記していますが、出典不明です。
また、「愚者」「賢者」にも言及していません。
従って、「ビスマルクの言葉を、他者が超訳・魔改造を経て格言化された事が推察される。」という「とぉ~く」さんの見解が一番妥当と思われます。
つまり、
フランス語または英語起源?の「苦い経験」に関する「愚者」と、
ビスマルク自身に関する格言を日本起源?の上記「歴史研究の必要」とを、
日本の誰かが悪魔合体させたのではないでしょうか。
やはり誰か強者が見つけてくれるまでは、ビスマルクに仮託された「賢者は歴史に学ぶ」を歴史語りでドヤ顔で引き合いに出すのは慎重にした方がよいでしょう。
(あえて言及するなら「ビスマルクの言葉と言われている」とか「出典は不明だが」とか断っておくべき)
【史実のビスマルクは自分の経験を語りまくっていた!?】
さてビスマルクはおそらく「賢者は歴史に学ぶ」とは言っていないことは分かりましたが、「経験」についてはどう言っているのか、
調べてみたら、ビスマルクは結構自分の「経験」について語っていましたwww
英語ウィキクオートで「experience」で検索すると以下3件ヒット。
●「経験」その1 「予防戦争は死を恐れて自殺するようなもの」
(Preventive war is like committing suicide for fear of death.)
という趣旨の、1876年2月9日のドイツ帝国議会での発言があります。
https://en.wikiquote.org/wiki/Otto_von_Bismarck
フランス国会が陸軍増強を決めた後、予防戦争をすべきか議論があったらしく、ビスマルクは以下発言します。
„Würden Sie da nicht sehr geneigt gewesen sein, zunächst nach dem Arzte zu schicken (Heiterkeit), um untersuchen zu lassen,
グーグル翻訳先生のお力を借りつつ訳してみると、
「医者に診てもらいたいと思いませんか(笑)」
意訳「あんたバカぁ!?(笑)」と言いたいようですwww
続いて
wie ich dazu käme, dass ich nach meiner langen politischen Erfahrung die kolossale Dummheit begehen könnte, so vor Sie zu treten und zu sagen:
グーグル翻訳先生いわく、
「長い政治的経験を経て、どうして私はあなたの前に足を踏み入れてこう言うという巨大な愚かさを犯すことができるようになったのですか。」
はい、ここで「経験」登場!
どう見ても経験に学んでいます。ありがとうございましたwwwwww
「こう言う」って何を言うのか?
Es ist möglich, dass wir in einigen Jahren einmal angegriffen werden, damit wir dem nun zuvorkommen, fallen wir rasch über unsere Nachbarn her und hauen sie zusammen, ehe sie sich vollständig erholen
グーグル翻訳先生いわく、
「数年以内に攻撃される可能性があるので、今それを先取りするために、私たちはすぐに隣人を襲い、完全に回復する前に彼らを殴ります」
すなわち予防戦争ですね。
で、ビスマルクの見解は、
– gewissermaßen Selbstmord aus Besorgniß vor dem Tode"
「死を恐れて自殺するようなもの」というわけです。
どこかのロシアのあの人に聞かせたい名言と言えましょう。
ちなみにウィキクオートのリンクをたどるとこのページに行き着きます。
ドイツ帝国議会の議事録のようで、1329~1330ページにこの発言があります。
赤字のハイライトは「Selbstmord」(自殺)という単語です。
Reichstagsprotokolle, 1875/76,2
●経験その2 「私は我々の経験に基づいて判断する」
(In this respect the abstract doctrines of science do not influence me: I judge according to the experience which we have.)
英語版ウィキクオートによると、これは1879年5月2日ドイツ帝国議会での演説の一部で、経済に関する発言です。
https://en.wikiquote.org/wiki/Otto_von_Bismarck
ドイツ語の発言を先ほどのサイトから根性で、「Wissenschaft」(科学)と「Erfahrung」(経験)をキーワードにして見つけましたwww
Unsere Chirurgie hat seit 2000 Jahren glänzende Fortschritte gemacht; die ärztliche Wissenschaft in Bezug auf die inneren Verhältnisse des Körpers, in die das menschliche Auge nicht hineinsehen kann, hat keine gemacht, wir stehen demselben Räthsel heute gegenüber wie früher. So ist es auch mit der organischen Bildung der Staaten. Die abstrakten Lehren der Wissenschaft lassen mich in dieser Beziehung vollständig kalt, ich urtheile nach der Erfahrung, die wir erleben.
こちらの932ページです。
Verhandlungen des Reichstages, Bd.: 53. 1879, Berlin, 1879
グーグル翻訳先生いわく、
「私たちの手術は2000年にわたって目覚ましい進歩を遂げてきました。人間の目では見えない身体の内部の働きに関する医学は、何もしていません。私たちは今日、以前と同じパズルに直面しています。それは国家の有機的な形成と同じです。科学の抽象的な教えは、この点で私を完全に冷たくします、私は私たちが持っている経験によって判断します。」
というわけで、「経験によって判断」だそうです。
なお、こちらが「experience」で英語版ウィキクオート検索した3件目ですが、上記と同じ出典と思われます。
In the domain of political economy the abstract doctrines of science leave me perfectly cold, my only standard of judgment being experience.
As quoted in W. H. Dawson, Bismarck and State Socialism: An Exposition of the Social and Economic Legislation of Germany since 1870 (1891), p. 54
というわけで、実際のビスマルクは予防戦争の是非について自身の「長い政治的経験」をふまえた見解を述べ、経済や「国家の有機的形成」については「科学」ではなく「我々」の「経験」で判断する、とのことです。
【逸話も名言も、研究者もみんな疑ってかかろう!―裸の王様にならないために―】
以上、ず~いぶん長くなりましたが(書き始めは5月(^^;))、
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」が本当にビスマルクの言葉か調べてみました。
【まとめ】
★それらしいフレーズはドイツ語では見つからず、おフランス語のナポレオン3世についての本などで見つかった。
★それも「自分」は「他人の苦い経験」から学びたい、という「他山の石」に近い内容だった。
★「賢者は歴史に学ぶ」の部分は日本語の本でしか見つからない。「愚者は~」と「賢者は歴史に~」は日本人による悪魔合体の可能性が高い。
★「経験」については、ビスマルクは帝国議会で思いっきり「経験」に基づいて判断するといっている!
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というフレーズをビスマルクの言葉として引用しつつ、オレ様は歴史学を学んだとドヤるのはやめましょう!
歴史学は出典を確認し、定かでないものをうのみにしてはいけない学問ですから!
新たな史料が登場しない限り、歴史学を学ぶポーズをとりつつ、このフレーズをビスマルクの真なる発言として扱うのは自己矛盾もはなはだしいと言えましょう。
歴史研究者は特に要注意です。
特に、誰かが経験を語るとき、「ばーかばーか!」みたいにののしるのにこのフレーズを使うのはやめましょう!www
十一月八日は「#井伊谷の日」と言うわけで、大河ドラマ『#おんな城主直虎』振り返りレビュー記事を書いていますが、井伊直虎男性説の再検討記事も書きたいです。
2016年12月、『おんな城主直虎』放映直前に、井伊美術館の井伊達夫館長が、『守安公書記 雑秘説写記』の存在を公表し、井伊直虎男性説を主張しました。
『守安公書記 雑秘説写記』は、井伊家彦根藩家老の木俣守貞が、祖先の守安が寛永17年(1640年)に記した聞書をまとめて享保二十年(1735)に成立したものとされています。
それによると、井伊次郎は今川家重臣関口氏経の息子であったとされ、これが直虎ではないかと言うわけです。
従来の直虎女性説は、龍潭寺住職祖山法忍が
享保十五年(1730年)に完成した『井伊家伝記』に基づいています。
「御菩提の心深思召」した井伊直盛娘が出家しようとして、これに困った直盛夫妻が南渓和尚瑞聞和尚に相談したところ、南渓和尚から「女にこそあれ惣領娘」だからと、次郎法師の名を与えられ、元許嫁の直親死後、幼少の直政に代わって地頭職を務めたとされます。
直虎男性説、女性説、どちらが正しいのでしょうか。
まず、『守安公書記 雑秘説写記』が新出史料で史料批判がいまだ不十分である事を指摘しておきます。
従って、全文が画像データ化され翻刻されて公開されて、研究者たちの検証を経ないと、真贋の結論は出せません。
最悪、既存の史料を読みあさった現代人が、徳政関連文書に登場する関口氏経を父親とするなど、つじつまの合う作り話をした可能性もないわけではありません。
しかし、『守安公書記 雑秘説写記』が真作だとすると、彦根藩家老の著作ですから、むげには否定できません。
一方、『井伊家伝記』も井伊家菩提寺住職の著作。わずか百五十年前(今なら明治初頭)の井伊家の人物を気軽に「女体化」するのは難しいでしょう。
たとえて言えば、現代人が沖田総司女性説や西郷隆盛女性説を唱えるようなものです。牧瀬里穂さん主演で沖田総司を女性とする映画はありましたが笑。
特に、祖山和尚は「由緒の井戸」の帰属を巡って、正楽寺と争い、正楽寺が井伊谷を支配していた旗本近藤家(あの胸毛の近藤さんの子孫です)に支持されましたが、祖山和尚は彦根藩に支持されて勝訴しています。そんな事情があるので、気軽な作り話は難しいのではないでしょうか。
また、直盛娘佑圓尼は出家後龍潭寺内に住み、埋葬された人物ですから、その伝承が龍潭寺で語り継がれていた可能性は十分あります。
「由緒の井戸」の訴訟の後、彦根藩主が参勤交代の途次、龍潭寺に立ち寄るようになったこともあり、彦根藩は『井伊家伝記』のストーリーを支持したと見ていいでしょう。
ただし、彦根藩の支持を得た祖山和尚が直盛娘が井伊家存続に果たした役割を強調し、それを彦根藩が直盛までの井伊家と、直政以降の井伊家を、系譜上しっかりとつなぐのに利用した側面も無視してはいけません。
なお、『守安公書記 雑秘説写記』が『井伊家伝記』の五年後の成立である事も注意を要します。
『井伊家伝記』の完成に触発された木俣守貞が、自分も彦根藩成立に関わるストーリーを書きたくなって、『守安公書記 雑秘説写記』を書いた可能性です。
また、どちらも「次郎法師」や「井伊次郎」には言及していますが、「直虎」とは書いていません。
と言うわけで、『井伊家伝記』と『守安公書記 雑秘説写記』どちらも無視できませんが、「次郎直虎」と署名した人物を特定する決定打にはなりません。
やはり一次史料の検討が必要です。
以下、一次史料を時系列に紹介します。
①永禄三年(1560)八月五日 今川氏真からの龍潭寺宛安堵状
桶狭間合戦後、南渓和尚が今川義元の葬式の安骨を務めた翌月、龍「泰」寺が井伊直盛菩提寺として改称して龍「潭」寺となり、氏真から諸権利を保障してもらった。
②永禄七年(1564)七月六日 井伊直虎?万千代?年貢割付
差出人不明。現在直虎が発給したとされるが、「小野但馬殿」「御一家中」などと敬称が付いているので、代理人作成か(夏目琢史氏の指摘)。
③永禄八年(1565)九月十五日 龍潭寺への次郎法師黒印状
次郎法師が龍潭寺への「寄進状」を出した。
④永禄九年(1566)霜月吉日 福満寺鐘銘写
永禄七年(1563)に死去した直平の菩提を弔うため寄進された鐘銘に「大檀那 次郎法師」「願主 瀬戸四郎右衛門」が登場。
⑤永禄十一年(1568)六月三十日 蜂前神社禰宜宛匂坂直興書状
徳政実施を求めて駿府に長期滞在していた匂坂直興が、蜂前神社禰宜に関口氏経との相談で、「二郎殿」説得に言及。直興は、直興と禰宜が小野但馬に接触して、二郎殿に徳政を実施すると言わせられないか、と相談。
⑥永禄十一年(1568)八月三日 蜂前神社禰宜宛匂坂直興書状
銭主が氏真の堀川城築城に協力しようとしている事を知った直興が反発し、自分(たち)も鉄炮や玉薬を購入しようと禰宜に提案。
⑦永禄十一年(1568)八月四日 関口氏経書状二通。
一通は「井次」(井伊次郎)宛、もう一通は「伊井(ママ)谷親類衆被官衆中」宛。ほぼ同文で、徳政令遅延を「太以曲事」と叱責。
⑧永禄十一年(1568)九月十四日 瀬戸方久宛今川氏真判物
堀川城の「根古屋蔵取立」を条件に、「次郎法師」「年寄」「主水佑」などが安堵した方久の所領を徳政令対象外と認める内容。
⑨永禄十一年(1568)十一月九日 関口氏経、次郎直虎連署状
銭主の難渋を理由として実施されなかった徳政令を、氏真の「御判形」の通り実施する事を命じる旨、徳政実施を待ち望んでいた「祝田郷 禰宜」や百姓に伝えた。
⑩天正十年(1582)八月二十六日 井伊直盛娘死去。
法名妙雲院殿月泉佑圓大姉。(龍潭寺過去帳、井伊家伝記)
⑪天正十八年(1590)五月 東光院過去帳「御尋ニ付書上候口上之写」
東光院桂昌和尚が、近藤石見守(秀用)の問い合わせに対し、東光院にある虚空蔵菩薩が「天正三乙亥年信濃守直盛公息女佑圓禪□□拝領」と回答したと過去帳に記録。裏面に「直盛」と刻まれた掛仏が東光院に現存。
以上十一点の史料を男性説で解釈すると、以下の疑問点があります。
まず、永禄三年八月、直盛菩提寺になった龍潭寺に井伊家新当主ではなく、氏真が安堵状を出している点。
これは、①井伊家が混乱していて新当主が直親に決まっていなかったので、南渓和尚が氏真の安堵状をもらった。
②そもそも直親は直盛の次の当主ではなく、当主候補がいなかった。
のどちらかが考えられます。
後者が正しいとすると、直親が直盛娘の許婚で、直盛娘が正当な後継者直政の養母として後見したというストーリーが揺らぎます。そして、候補不在の井伊家に関口氏経が落下傘候補として入り込む余地が生まれます。
永禄七年の割付は、名前不明の少年直虎がまだ幼すぎて、「代理人」が書いたと考えてよしとしましょう。
しかし、翌年の龍潭寺への寄進状は、内容が随分詳しい。龍潭寺の実状に詳しい人でなければ書けないです。でも、これも少年直虎が南渓和尚の言いなりだったかも知れないのでまあOK。
「次郎法師」という幼名の少年は、黒印を押せるようになったと解釈できます。
ただし、今川家中では寿桂尼も、早川殿も印判状を出しているので、黒印状が男性説を補強する事にはなりません。
鐘銘も大人の言いなりとしてスルーできますが、永禄十一年の直興書状は不自然です。「二郎殿」が関口氏経の息子なら、なぜ父親の意向に逆らっているのでしょう。また、直興も、氏経が自身で二郎殿を説得する事を期待せず、小野但馬に働きかけようとしています。
これは同年九月の氏真書状と組み合わせると、もっとおかしく思われます。瀬戸方久に徳政を免除する意思を持っているのに、いまだに幼名で「次郎法師」と呼ばれています。政治的意思を示せる成人男性ならば、元服していてもよいのではないでしょうか。
そして、それから二ヶ月足らずで、「次郎法師」が「次郎直虎」に変身して、関口氏経と連署することになります。また、八月に関口氏経に厳しく叱責された「井次」と同一人物なのか、疑問です。
従って、次郎直虎が関口氏経の子息である場合、九月に氏真に「次郎法師」と呼ばれ、徳政実施に乗り気でなかった人物とは別人と考えた方が自然です。
その場合、氏経の子息は、父親と井伊谷に乗り込むようにしてやって来て井伊家当主となり、代替わりの徳政をした形になります。
そして、その翌月徳川家康に攻められて井伊谷を追われたのでしょう。
このシナリオの「次郎法師」の性別は、女性の直盛娘の可能性がかなり高いと思われます。
まず、永禄九年の徳政に対し、銭主が難渋するからやりたくない、という政治的意思を持つ大人である。そして、成人男性なら元服して諱「直〇」あるいは信濃守直盛や肥後守直親など受領名や官途名を名乗るはずだがそう呼ばれず、氏真からは「次郎法師」と男性にとっての幼名で呼ばれている。
つまり、「次郎法師」「二郎殿」としか呼びようのない、諱も受領名も持たない人物、女性の次郎法師だった。
福満寺に鐘を寄進した頃には、大檀那になれる直平の直系子孫は直盛娘以外見当たらない。
そして、肉親直平のための鐘寄進の費用負担のために、銭主瀬戸方久に恩義を感じていても不自然ではない。
また、次郎法師女性説、次郎直虎男性説だと、小野但馬の「横領」も説明できます。
次郎法師から、次郎直虎への交代劇で小野但馬が何らかの役割を果たし、反対派がそれを「横領」と認識した、というわけです。
ただし、小野但馬は匂坂直興書状では、次郎法師と信頼関係を築いていた可能性もあるので、関口氏経の子息に井伊谷を託すのが女性の次郎法師にもよいことだ、と説得した可能性も十分あります。
井伊家と小野家の関係は良好だったので、後に直政が家康に出仕した際、小野但馬の甥万福も従い、再興なった井伊家の重臣となったのではないでしょうか。
井伊谷徳政実施は、家康の遠江国侵攻直前で、徳政では新城築城も焦点でしたから、合戦の矢面に立つのは女性では荷が重かろう、と説得したかも知れません。
そうすると、直盛娘は小野但馬の配慮のおかげて、井伊谷三人衆の内通で井伊谷が徳川方の手に落ちた後も、徳川方から敵として責められずに龍潭寺に住むことができた事になります。
なお、関口氏経の子息が次郎直虎として井伊家の新当主となる際に、次郎法師の婿、あるいは養子として井伊家に入った可能性もあるかも知れません。
なぜなら、直盛娘=次郎法師が井伊家唯一の嫡子であり、次郎法師と何らかの関係を持つことで、関口氏経の子息による井伊家相続の正統性を高めることができるからです。
次郎法師は、この頃子供がいてもおかしくない年頃で、初婚としてはかなり晩婚と思われたでしょう。
井伊家嫡女との関係による正統性獲得は、後の彦根藩と祖山和尚も考えたので、直親と直盛娘が許婚で、直政が養子だったというストーリーにつながったと思われます。
ただし、これもある程度事実のベースがあったかも知れません。
直盛娘は父親直盛が大永六年(1526)生まれだとすると、早くても天文九年(1540)以降の生まれでしょうから、直親と直盛娘が許婚だったとしても、親が決めた許婚の可能性が高いです。後世想像されたような十歳くらいの相思相愛のカップルではなく、直親十歳、直盛娘五歳以下で直親の父直満が駿府で誅殺されて、直親と直盛娘は引き離されることになります。
直盛娘は幼いながらも直親との結婚を夢見たかも知れませんし、乳児で直親の存在を周囲の大人の話だけで知っていただけかも知れません。
直盛娘の出家願望は、直親が信濃で知らない女性と庶子をもうけたと知って失望したか、謀反人の息子とは結婚できないために世をはかなんだためかも知れません。
ちなみに「次郎法師」と言う名は、正式な僧侶の名ではないので、直盛娘は次郎法師と名乗るようになっても実際には在家信者に留まっていたと思われます。
それで、直盛死後、次郎法師は井伊家唯一の嫡流として、婿を取るか養子を取るか宙ぶらりんのまま、中野直由や新野親矩、曾祖父直平らに守られていたのではないでしょうか。
そして、彼らがことごとく死去したため、小野但馬らほぼ同世代の重臣の補佐を受けつつ、瀬戸方久からは財政支援を受けつつ井伊谷の地頭の役割を果たそうとした。
なお、直親が誅殺された後、遺児直政との関係がどれほど深かったかは不明です。少なくとも、直親の反逆に連座しないよう、穏便な処遇を望んだとは思われます。直政は新野親矩の叔父がいた浄土寺に預けられたという系図もあるので、直盛娘との接点は余りなかったかも知れません。
井伊谷が徳川方に攻め落とされた後、井伊谷は事実上井伊谷三人衆に山分けにされ、関口氏経の子息は逃走あるいは討ち死にして、井伊家は滅亡の危機にさらされます。
少なくともこの時点で、直政の存在がクローズアップされ、井伊家起死回生の希望が直政に託されたでしょう。
直親死後、直政は母の再婚相手の松下姓を名乗っていました。再び井伊姓を名乗るためには、直盛娘の許可が必要だったはずです。
直政が家康に出仕した天正三年(1575)には、直盛娘は正式に出家して佑圓尼と名乗っていたでしょう。正確な出家の時期は不明です。
井伊谷地頭の地位を関口氏経の子息に譲って出家したか、関口氏経の子息が井伊谷を追われるか、討ち死にした後か、井伊家が井伊谷を奪われた後か、不明です。
いずれにせよ、佑圓尼となった直盛娘は天正三年に直盛の虚空蔵菩薩を東光院に寄進した七年後、天正十年八月に亡くなります。
その後、小田原征伐の最中、天正十八年(1590)五月に、近藤石見守が虚空蔵菩薩の由緒を東光院の桂昌和尚に尋ねることになります。
家康の関東入りはまだ知らなかったでしょうが、合戦後、直政支配下の井伊谷の帰属が変化するかも知れないので、気になったのでしょうか。
いずれにせよ、当時の井伊谷周辺の人々が直盛と娘佑圓尼の関係を認識していた事は分かります。
以上、色々考察してみましたが、直虎男性説を採用すると、直虎登場直前まで当主の地位にいた次郎法師とは別人と考えた方が矛盾が少なく、政治的意思を持ちながら幼名のままなので、『井伊家伝記』の記述の通り、女性の直盛娘と考えた方がよさそうです。
そうなると、『おんな城主直虎』のあらすじは、大筋では史実と矛盾しないと言っていいでしょう。
仮に次郎法師も男性だったとすると、関口氏経の子息でもなく、直盛娘でもない、未知の第三の次郎法師を見つけなければなりません。
また、以上の考察からは、直盛娘が直虎でも次郎法師でもないとしても、祖山和尚、彦根藩、旗本近藤家が井伊家嫡流としての相続権を持っていた直盛娘に強い関心を抱いており、直盛娘が表舞台に出なかったとしても、井伊谷で影響力を保持していたのではないか、と思われます。
ちなみに、井伊達夫氏は、2017年4月に『河手家系譜』という新史料を公開しました。この史料では、「井ノ直虎」が関口氏経の子息とする一方、「次郎法師」が直盛娘と記述があるそうです。こちらも『守安公書記』と同様、徹底的な史料批判が待たれます。
以上、「井伊谷の日」の、直虎男性説の再検討でした。