織田信長が好んだ幸若舞『敦盛』の一節「人間五十年、下天の内をくらふれば、夢幻の如く也」の読みや意味、気になってましたがこの記事を目にしたので、検証してみます。
乃至政彦「織田信長は「人間五十年」を本能寺で歌っていない!?『信長公記』「天理本」とほかの写本を比べてわかる真相」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70835
この記事にあるように、最近「人間五十年」の「人間」の読みは「にんげん」ではなく「じんかん」、「五十年」の意味は人の一生とか人生とかではなく人の世、という見解を目にするようになりました。
ウィキペディアにも同様の見解が示されています。
敦盛 (幸若舞)(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A6%E7%9B%9B_(%E5%B9%B8%E8%8B%A5%E8%88%9E)
「「人間(じんかん、又は、にんげん)五十年」は、人の世の意。 「化天」は、六欲天の第五位の世化楽天で、一昼夜は人間界の800年にあたり、化天住人の定命は8,000歳とされる。「下天」は、六欲天の最下位の世で、一昼夜は人間界の50年に当たり、住人の定命は500歳とされる。信長は16世紀の人物なので、「人間」を「人の世」の意味で使っていた。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、「人の世の50年の歳月は下天の一日にしかあたらない、夢幻のようなものだ」という意味になる。」
なお、ウィキペディアによれば、「一昼夜は人間界の50年」という「下天」は「六欲天の第1天、四大王衆天(四王天)」だそうです。
四天王(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B
しかし、『敦盛』について「じんかん」や「人の世」とする典拠が見当たりませんので疑問でした。
そこでこれを機会にググって見ると、「人間」の読みについて、Yaho知恵袋に「人間(げん)五十年」とするコメントがありました。
nak********さん
2009/3/19 20:31(編集あり)
『敦盛』の件: 謡曲の本、寛永版「舞の本」(国立国会図書館
の蔵整版より)によれば、以下の如くルビ仮名がついて居ます。
織田信長が好んでいたといわれる『敦盛』ですが、【人間五十年化天(下天... - Yahoo!知恵袋
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1424310734
それで早速国立国会図書館デジタルコレクションに飛んで、ブツを調べました。
タイトル『あつもり』 出版年月日 [寛永年間](国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541845
幸若舞『敦盛』のさし絵付きテキストで、33コマ目、「人」で始まる行以下に「人間五十年」のフレーズが変体仮名で書いてあります。
これは「人けん」ですね。「遣」を崩した変体仮名の「け」です。
こちらは変体仮名参考ホームページ。
変体仮名を覚えよう
https://web.archive.org/web/20170823023827/http://www.toride.com:80/~yuga/moji/kana.html
…というわけで、信長死後50年程度の寛永年間(1624年から1644年まで)には「人間五十年」は「にんげん」と読まれていたのは確実です。
ただし、「じんかん」と読まなかった証拠にはならないので、両方の読みがあった、という主張は可能です。
ただ、幸若舞『敦盛』のテキストで「じんかん」という読みがなければ「じんかん」派はやや不利ですね。
さて、「五十年」が人の一生とか人生とかではなく人の世、という主張については幸若舞『敦盛』そのものに関わる証拠は見つけられませんが、それがしの今川氏真詠草「野良」研究から興味深い検討材料をご紹介しましょう。
歳暮
老の浪あはれことしもこゆるきのいそちといはん限をそ思(幽71)
定をく命のきはの年の暮明日より後はさもあれはあれ(紹770)
何を待住居なるらん石上ふるかひとては年をかそえて(4―70)
それぞれ細川幽斎、里村紹巴、今川氏真の歌です。
本能寺の変があった天正十年(一五八二)の暮、一五三四年生まれの幽斎は来年数え年で五十歳か、と感慨にふけりました。
紹巴は幽斎の歌を見て、定命を迎える明日からはなるようになれ、と助言しています。
ということで、二人は「五十年」を寿命と考えていると見てよいでしょう。
氏真さんは、その数年後に二人の百首を書写して、同じ題で百首を詠みました。この歌も「いそ」=五十の上の年齢をどんなかいがあって「ふる」=年を取るのか、と問う歌で、五十歳が節目だと見ています。
幽斎は信長に仕え、紹巴も連歌師として、氏真も上洛して一緒に蹴鞠した時から信長と面識がありますので、信長も五十年を人の一生とか人生の節目と考えた可能性は大いにあります。
以上から、信長が「人間五十年」を「にんげん」と読み、五十年が人の一生や人生と、従来の解釈と同じ理解をしていた可能性も十分あると思われます。
一方、「じんかん」は仏教用語のの読みを、人の世は「下天」に関する知識をあてはめてみたもので、幸若舞『敦盛』や信長の同時代人の理解を示す史料はないのではないでしょうか?
以前このブログで取り上げた「天下布武」の解釈で、『礼記』にある「堂上接武、堂下布武」に着目する新説を取り上げましたが、それと同様偶然の見かけの類似にとらわれ過ぎかも知れません。
そういえば、『評伝今川氏真』や『評伝三条西実澄』(どちらもAmazon電子書籍販売中!)でも書きましたが、「天下布武」の「武」は、『春秋』の楚の荘王が「戈を止める武」や「武(武王)の七徳」を語って京観を作らなかったエピソードとの関連の方が強いと思われます。
(なお、立花京子氏は「七徳の武」としましたが、それがしは「武の七徳」としたのがミソです)
というわけで、「じんかん」派や「人の世」派の皆さんから、幸若舞『敦盛』や信長の同時代人の記録を用いた反論を期待し、それまでサガラは「にんげん五十年」で、五十年の人の一生は短い、という見解を維持することにします。
【おまけ】
ちょっと長いですが以下は歌の解説。
一番目は細川幽斎の一首。『衆妙衆』所収。『正親町天皇御製百首と同じ題で詠んだ百首の一。この歌は一五三四年生まれの幽斎が数え年で五十歳を迎えた天正十一年(一五八三)前後の詠歌。
浅田徹氏が「衆妙集冒頭の百首歌について--成立・異伝・表現」(森正人、鈴木元編『細川幽斎 戦塵の中の学芸』笠間書院)で詳説。
二番目は幽斎の親友連歌師里村紹巴が、天正十一年(一五八三)初冬に幽斎の百首に和して詠んだ歌。日下幸男『中院通勝の研究―年譜稿篇・歌集歌論篇』勉誠出版所収。
聖護院道澄(近衛前久の弟)、紹巴の師匠の息子で弟子で娘婿でもある里村昌叱、幽斎の婿で弟子でもある中院道勝と一緒に四吟百首を行っているとされる。
弟子の沙弥貞徳(松永貞徳)も同じ題で百首詠んでいる。
三番目が今川氏真の「百首」。『観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館)所収の「附 今川氏真全歌集」や和歌史研究会編『私家集大成7上 中世5上』(明治書院、一九七六年)に収録。
井上宗雄氏が『今川氏と観泉寺』所収の「今川氏とその学芸」で、天正十年代に氏真が幽斎と紹巴の百首を書写し、伊勢国神戸で綴り終わったと言及。
サガラが『評伝今川氏真』で氏真「百首」(作品4)の題が幽斎、紹巴の百首と同じと確認、三人の歌を比較しつつ解釈しました。