おとなげない大人は
回収されないエピソードが好き?
こんにちは。
相模の風THEめをとのダンナ
いしはらとしひろです。
【回収されない伏線】
長編映画や小説を読んでいると、「回収される伏線」というのが、大事になることがあります。
え、なんか意味あるの?というような小さなエピソードが、物語が進むにつれ実は大事な意味があって、主人公の行動の意味づけになったり、ラストのどんでん返しにつながる要素になったり。
物語を読むのが好きな人は、序盤の小さなエピソードを、「お、これは何かの伏線かも」と、ちょっと気に留めておきながら先に進んだり。
読む方としては、その見立てが当たると、ちょっと嬉しかったり。
最近ではみんなそういうことに慣れてきて、たとえば映画のレビューなどを読んでも「伏線が見事に回収されて、ラストにカタルシスを産む」なんてことが書かれるのを多く見かけたり。
この伏線の回収、やはり大事です。
これがうまくつながると物語の面白さをより膨らませる。
でも、そうじゃないものもあります。
回収されないエピソード。
伏線のような顔をして、どこにもつながらず、宙ぶらりんのまま物語が進んでしまう。
最近の自分の好みとしては、この回収されないエピソードが好みです。
別にどうってことはない小さな話。
物語の大筋にも影響を及ぼさない。
でもなんか、妙に引っかかる。
何年も経って、その映画の感動の場面は朧げにしか覚えていないけれど、どうでもいいはずの回収されなかったエピソードは鮮明に覚えている、とかね。
今、平家物語を読んでいて、まあ長編だというのもあるのでしょうが、これがまたたくさんの登場人物のいろいろな物語が散りばめられています。
解説によると、平家物語は異本が随分とたくさんあるそうです。
つまり物語の細部が違うものがたくさんあるということですよね。
平家物語AバージョンにあるエピソードがBバージョンにはない。その代わりBバージョンにしかない話もある、みたいなことです。
これは物語の成り立ちも関係していると思います。
平家物語といえば琵琶法師。
そもそも声に出して語られる文字通りのものがたり。
人前で語り聞かせているうちに、話を膨らませたり、その場で思いついたエピソードをアドリブで加えたりなんてことが、多分日常的に起きていたことと思います。
その日その時にしか語られない話もたくさんあったに違いありません。
口承の語りを物語にまとめる時、文字に書き起こす時に、当然編集者的な人はいたわけです。
でもその編集する人のセンスで、平家物語Aバージョンは物語の流れを重視して、余計なエピソードは省いて直線的な流れの物語になり。Bバージョンは、面白い挿話は全部突っ込もうという編集のされ方をして、Cバージョンはまた…
みたいな、そんな形でいくつかの異本がまとめられたのではと想像します。
またその幾つもあるバージョンから、もう少し後の時代に、美味しいところをうまくまとめて、みたいに再編集する人もいたでしょうし。
現代の小説と違って、この平家物語は作者不詳です。
そしてどう見ても、一人の作者が書いたものではなさそうです。
いろいろなところで語られていた平家に関する物語。
そして主に琵琶法師の口を通して、聴き手に語られるという作業を通しての洗練。
人に対してその場で聞かせる、というのはすごく大事ですよね。
その過程で、この話は受けるけど、これはイマイチだから、みたいなレスポンスの状態を受けて、語り手や編者はエピソードの取捨選択をしたと思います。
今、僕が読んでいる平家物語。
多分ここに収められなかった幾つもの小さな物語を想像しながら読むと、また楽しみも広がります。
そしてあっちこっちに話が飛びながら、大きく展開していくその様。
回収されない語られっぱなしのものもいくつもあって。
でもだからこそ豊かで面白い物語なのだと思います。
日本に多く見られることとして。
勝者には栄誉栄華がもたらされ、敗者には物語が残されます。
敗者の物語はきっと弔いの意味と、鎮魂の意味があると思います。
ありていに言えば、ちゃんと物語として語り継ぐから、化けて出ないでくれ、祟らないでくれ、という即物的な意味も含めて。
でも、これだけ豊かな物語が残されて、今も人の心を動かすのであれば、それは最高の鎮魂だと思います。
まあ、そういうこと抜きにしても、めちゃくちゃ面白いので、今それを貪れる僕は幸せです。
ありがたや。
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