山中城 | 「週刊文武」 相模家康

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相模家康です。

 

 

さて、今回は山中城!!

〈基本データ〉
  築城年:1558~1570年
  築城主:北条氏康
  改修者:北条氏政
 主要城主:松田氏
   別名:なし
   形態:山城
   遺構:曲輪,堀,土塁
  文化財:山中城跡(国指定史跡)
  所在地:静岡県三島市山中新田
  訪問日:2022/05/02
 
《ガイド》
  山中城は戦国末期の永禄年間(1560年頃)に小田原に本拠地をおいていた後北条氏

▲Wikipediaより

が、小田原城の支城として築いた城です。
 
 
※支城…後北条氏特有の技術で、本拠地である小田原城を中心としてそれを守るように周囲に城を作り防衛線を築いていくものです。このことによって、外部から侵略されてもいきなり小田原城が攻撃されるのを防ぎそれぞれの地域の最新情報を瞬時に共有することも出来ました。
 
 
その後、西国で勢力を広げ天下統一を目前としていた豊臣秀吉

Wikipediaより

の攻撃に備え大改修を行い、現在でもその遺構が数多く見受けられます。
 
 
【僕の攻め方】
  では、実際に山中城を攻めていきましょう。
  正式にはバス停の広場が正面口なのでしょうが、僕はまず駒形諏訪神社の方から攻めます。
  鳥居をくぐりちょっとした森の中の道を進むと駒形諏訪神社の社があります。
 
 
  旅行の無事を祈ります🙇
 
 
 
 さて、更に先へと進んでいきますあし
 
 すると、兵糧庫と弾薬庫の跡が。
 

 また、同じ広場には矢立の杉と言われる大きな杉がありました。
 この広場をさらに奥へと進むと本丸があり、
 藤が見事に花を咲かせていました。
 
 また、本丸を右奥に進み天守櫓と書かれた方面へ向かうと天守台がありました。
 
 その天守台の近くにある架橋を渡ると
 
 北の丸へとたどり着きました。
 北の丸から本丸へと戻り、障子堀が見える方面へと進みますあし
 
 
 またしても出現する架橋を渡り二の丸へ。
 
 橋からは障子堀がガーン
 
 
 まさかもう見えるとは思っておらず驚きましたが、これはまだ序の口。
 
 
 奥へと進みさらに多くの障子堀が見えるスポットへ。
 
 
▲土塁もしっかりと作られていて、攻める隙がありません。
 
 
 
 さて、ついに西ノ丸へと到着。
 先ほどよりはさらに多くの障子堀が見え、「これぞ山中城」という感じでした」。
 そもそも、何故この障子堀が防衛に効果的なのかというと…
 昔は今のように橋はかかっていなかったので、この堀を越える必要があります。
 
 
 そうなった時に、障子堀の穴の部分に重い甲冑を着た敵が入り込みます。
 
 
 すると、敵は周りの高い壁に遮られ身動きが出来なくなってしまい、堀の対岸にいる守る兵に射撃される、という仕組みだったのです。
 
 
 また、当時は更に深い穴で壁も高かったのに加え、関東地域特有の滑りやすい赤土により堀を越えるのは尚更困難であったと言われています。
▲令和元年の台風19号の影響で未だに一部崩落している部分があった。
 
 
 障子堀をしっかりと見終わった後は、その脇にある道を通っていきます。すると…
 「史蹟 山中城」という石碑が建っていて、さらに奥へ進むと三島市展望地点が。
 この日は富士山は見えませんでしたが、三島市を一望することが出来ました。
 さて、往路とは別の道を通ると北の丸の方から最初の駒形諏訪神社へと戻ります。
 
 
 これで終わりではありません。
 
 
 バス停の近くにある駐車場の奥には出丸があり、ここでも障子堀や数々の曲輪が見受けられます。
 



 
 こちらの曲輪はあまり知られていませんが、山中城の防衛線の一つなので見ておくのをお勧めします!

〔寄り道ガイド〕
  駐車場と駒形諏訪神社の間にある宗閑寺には、豊臣秀吉の小田原攻めに伴い山中城が秀吉軍に攻撃された際の死者の墓があります。
 


 
 実は、越えることが極めて困難な堀を持った山中城でも秀吉が攻めてきた際にはわずか半日で落城してしまいました。
 
 
 というのも、秀吉側の軍は七万人であるのに対し北条側の軍は僅か四千人。北条側は必至の防衛を続けましたが、数の差で圧倒されついに落城したのです。
 
 
 このことは、さすがの北条側幹部も衝撃を受けました。
 

◆歴史◆
 15**年 小田原に本拠地を置く後北条氏の当主・北条氏康が築城
 1579年 後北条氏と豊臣秀吉らとの関係が悪化したため伊豆地方からの侵攻に備え北条氏政
      が山中城の大改修を始める
 1590年 三月 改修が完了していない中豊臣秀吉率いる四万の軍勢が山中城を攻撃、落城
      七月 小田原城が落城し後北条氏は滅亡
 1930年 山中城跡が国の史跡にしたいされる
 2006年 日本百名城第四十番に選定される

 
今回はここまで。
 
 
最後までお読みいただきありがとうございました。
 
 
次回もお楽しみに!