アクセスありがとうございます。
お久しぶりです。相模家康です。
桜も見頃となりました
今回は桜の名所・大和郡山城です!!
〈基本データ〉
築城年:1162年(平安時代後期)
築城主:郡山の人々
改修年:1580年(安土桃山時代)
改修者:筒井順慶
別名:雁陣之城
形態:平山城
遺構:石垣、堀
文化財:郡山城(国史跡)
所在地:奈良県大和郡山市城内町(奈良県北部、JR奈良駅から南西に約5km)
《歴史ガイド》
大和郡山城は、平安時代後期にこのあたりに住んでいた民が佐賀県の吉野ヶ里遺跡のような環濠集落を建設したのが始まりです。
その後、安土桃山時代にこの地方で権力を握るのが筒井順慶です。
順慶は元々郡山より南の筒井城を本拠地としていましたが、1565年に三好氏の家臣である松永久秀
に筒井城を攻め落とされ
筒井一族がいる奈良県中西部の布施城に本拠地を移しました。
![メラメラ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/037.gif)
筒井順慶は布施城で再起の力を貯め、ついに1566年に筒井城を奪還。
しかし、1568年に織田信長の支援を受けた松永軍に再び攻め落とされ、順慶は奈良県中東部の福住中定城とともに郡山城を拠点としました。
このときに鎌倉時代に建築された東大寺の2代目大仏殿
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230403/11/sagamin23/d9/6f/j/o1080072015264624361.jpg?caw=800)
(現在は3代目大仏殿)
も焼け落ちてしまいます![ドンッ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/280.gif)
![ドンッ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/280.gif)
話を戻して…
こうして筒井順慶の本拠となった郡山城は、大改築が行われます。
1583年には天守が完成。しかし、日本は既に豊臣の天下。
豊臣秀吉の命令で順慶の養子は伊賀へ移され、郡山城には秀吉の弟である豊臣秀長が入りました。
そんな秀長に付いた異名が「大和大納言」。
権大納言という官位に任命されたためです。
しかし秀長は52歳で死去。養子の秀保が家督を継ぎますが、4年後に亡くなってしまい、秀長の家系は途絶えてしまいました。
やがて豊臣政権では徳川家康が台頭。1614年には豊臣軍と徳川軍が全面戦争。世に言う大坂の役です。
郡山城で当時城に入っていたのは、徳川家康の後ろ盾がある筒井順慶の養子である(伊賀に移された養子とは異なります)筒井定慶・慶之兄弟。
豊臣方は筒井氏に援助を求めましたが、筒井氏は拒否。
豊臣方は大野治房達の軍勢を派遣し、郡山城は豊臣方の手に落ちました。
筒井兄弟は城内で自害したと言われています。
江戸時代になると水野勝成、松平忠明、本多政勝、松平信之、本多忠平と城主が相次いで変わり、その都度改修・拡大が行われました🪓
その後1724年に柳沢吉里が入城すると、郡山は安定した時期を迎えました。
当時の郡山城下の人口は『郡山町鑑』によれば1万3000人を超えていたといいます(当時の新潟と同じくらい)![びっくり](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/031.png)
![びっくり](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/031.png)
そのまま明治維新を迎え、現在に至っています。
【僕の攻め方】
最寄駅は近鉄の郡山駅。城は線路の西側にありますが、東側から行くのがオススメ。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230403/18/sagamin23/59/3a/j/o1080072015264786373.jpg?caw=800)
線路脇の道を行くと、左側に三の丸緑地があります。現在の線路は、当時の三の丸の西の境に走っているのです![電車](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/126.gif)
![電車](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/126.gif)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230403/18/sagamin23/f4/04/j/o1080072015264786385.jpg?caw=800)
今回はここまで。
最後までご覧いただきありがとうございました。
次回もお楽しみに!