スリランカからの一時帰国の際、トランジットで滞在したクアラルンプールでIslamic Arts Museumという場所へ行ったときの話。
この博物館は名前の通り、イスラムの歴史・文化・アートなどに関する展示を行っている博物館である。"Contemporary Muslim Calligraphy"というコンテンポラリー・アートの特別展などは、素人が見てもすばらしいものだった。同博物館内に、中国にも古来からイスラム教が伝わっており、王朝との関係も密だったことを示す常設展があった。それを見たとき、多数派であるイスラム教徒のマレー系マレーシア人と中華系マレーシア人の融和を図りたいマレーシアの国策的な意図を感じた。
宿のレセプションで同博物館について尋ねた際、「今日はやっていない」とあしらわれた。自分でも調べてみたら開いているようだったので、「知らなかったのかな?」と思ったが、その子は華僑だったので私がイスラム教の博物館に行きたいと言ったことで気分を害したのかもしれない。邪推だとは思うが、マレーシアが多民族国家であることを考えると可能性としてゼロではないだろう。
マレーシアやその前にいたスリランカと比べて、単一民族国家とされる日本で育ったことには幸せな面と不幸せな面がある。多民族国家にある民族間の複雑な感情を経験しなくて済むことは日本国内だけで生活する分には幸せかもしれないが、そうした感情に免疫がないことは国際社会で生きるには不利であり、不幸とも言える。
日本人は同質であることを重視するあまり、少しの差異も敏感に察知し、過剰に反応する。学校や職場でのいじめに見られるように、同じ日本人でもわずかな差異を理由に迫害する。流行の「マイルドヤンキー」という言葉にしても、単に居住地域の違いによるライフスタイルや価値観の違いといった当然の差異に注目し、センセーショナルな呼び名をつけることで「彼らは我々とは違う」と思いたがる日本人的な差別思想の現れのように思う。
こうしたことを考えているときに下記の記事を読んだのだが、そうした日本の問題が的確に指摘されている。
日本はなぜ凡庸な国に変わったのか?シンガポール元首相が警鐘―中国メディア
(以下一部抜粋)
「日本国内にはある程度の中国人、韓国人、ベトナム人、その他国の人々が住んでいる。あるデータによると、韓国人56万6000人、中国人68万7000人が日本に住んでいるという。これらの人々の日本語は非常に流暢で、ライフスタイルや行儀作法もすでに日本人と何ら大差はない。これらの日本に住む外国人は日本社会に完全に溶け込んで暮らすことを心から望んでいる。しかし、日本社会は実際、これらの日本で生まれ、あるいは育った外国籍の人々を完全には受け入れていない。なぜなら、日本人はこれらの人々のことを日本民族ではないと見ているからだ。 (中略)日本社会の単一性は、日本で学んだ後、さまざまな理由により外国にある一定期間滞在した後に帰国した日本人でさえ適応するのが難しいと感じるほどだ」
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異質な他者と共生する意識、感覚がないことは日本人の大きな弱みであり、世界中のほとんどの国や地域に暮らす人びとが経験している感情の機微を理解できない原因になっている。このことは外国人とのコミュニケーションの失敗要因にもなる。私自身、クアラルンプールの宿での失敗に限らず、日本のホステルで働いていたときにもそうしたセンシティブな間違いをたくさんしてきたと思う。それらはデリカシーのなさ、もしくは無知と受けとられたことだろう。
異なる環境で育ってきた人を理解するためにできることは、二つしかないと思っている。
まずは事実を知ること。
本を読む、現地に足を運ぶ、対話をすることなどがそうだ。人との対話はもちろん、本にも展示にも誰かの主観が入り込んでいる。「主観」と「事実」を別のものとして理解することが大切だが、主観の中に事実が見出せることもある。Islamic Arts Museumで、イスラムの主観で中国との関係性が語られることで、逆にマレーシアが多民族国家であるという事実が浮き彫りになることなどがそうだ。
もう一つは、学んだ事実から想像力を働かせること。
震災で家や家族を失った苦しみや悲しみは、同じ経験をした人にしかわからない。しかし、全く同じ経験がなくても、自分の経験にできるかぎり引き寄せて考えてみることはできる。そうした想像力を持って自分とは異なる他者と接することができれば、相手は自分が尊重されていると感じ、よりよいコミュニケーションが生まれる。
これから先、特に私(30歳)より下の世代が、「一生日本国内で日本人とだけ関わって生きていく」ということはほぼ確実に不可能だ。日本でも「異質な他者」と共生していかなければならない時代がやってくる。そのための訓練をしておいた方がいい。
明らかに自分と異なる他者と出会い、かつ自分自身が常にマイノリティになる「旅」は、それまで知らなかった事実を知るにも、想像力の訓練をするにも最高の環境だと思う。
旅に出てみよう。
この博物館は名前の通り、イスラムの歴史・文化・アートなどに関する展示を行っている博物館である。"Contemporary Muslim Calligraphy"というコンテンポラリー・アートの特別展などは、素人が見てもすばらしいものだった。同博物館内に、中国にも古来からイスラム教が伝わっており、王朝との関係も密だったことを示す常設展があった。それを見たとき、多数派であるイスラム教徒のマレー系マレーシア人と中華系マレーシア人の融和を図りたいマレーシアの国策的な意図を感じた。
宿のレセプションで同博物館について尋ねた際、「今日はやっていない」とあしらわれた。自分でも調べてみたら開いているようだったので、「知らなかったのかな?」と思ったが、その子は華僑だったので私がイスラム教の博物館に行きたいと言ったことで気分を害したのかもしれない。邪推だとは思うが、マレーシアが多民族国家であることを考えると可能性としてゼロではないだろう。
マレーシアやその前にいたスリランカと比べて、単一民族国家とされる日本で育ったことには幸せな面と不幸せな面がある。多民族国家にある民族間の複雑な感情を経験しなくて済むことは日本国内だけで生活する分には幸せかもしれないが、そうした感情に免疫がないことは国際社会で生きるには不利であり、不幸とも言える。
日本人は同質であることを重視するあまり、少しの差異も敏感に察知し、過剰に反応する。学校や職場でのいじめに見られるように、同じ日本人でもわずかな差異を理由に迫害する。流行の「マイルドヤンキー」という言葉にしても、単に居住地域の違いによるライフスタイルや価値観の違いといった当然の差異に注目し、センセーショナルな呼び名をつけることで「彼らは我々とは違う」と思いたがる日本人的な差別思想の現れのように思う。
こうしたことを考えているときに下記の記事を読んだのだが、そうした日本の問題が的確に指摘されている。
日本はなぜ凡庸な国に変わったのか?シンガポール元首相が警鐘―中国メディア
(以下一部抜粋)
「日本国内にはある程度の中国人、韓国人、ベトナム人、その他国の人々が住んでいる。あるデータによると、韓国人56万6000人、中国人68万7000人が日本に住んでいるという。これらの人々の日本語は非常に流暢で、ライフスタイルや行儀作法もすでに日本人と何ら大差はない。これらの日本に住む外国人は日本社会に完全に溶け込んで暮らすことを心から望んでいる。しかし、日本社会は実際、これらの日本で生まれ、あるいは育った外国籍の人々を完全には受け入れていない。なぜなら、日本人はこれらの人々のことを日本民族ではないと見ているからだ。 (中略)日本社会の単一性は、日本で学んだ後、さまざまな理由により外国にある一定期間滞在した後に帰国した日本人でさえ適応するのが難しいと感じるほどだ」
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異質な他者と共生する意識、感覚がないことは日本人の大きな弱みであり、世界中のほとんどの国や地域に暮らす人びとが経験している感情の機微を理解できない原因になっている。このことは外国人とのコミュニケーションの失敗要因にもなる。私自身、クアラルンプールの宿での失敗に限らず、日本のホステルで働いていたときにもそうしたセンシティブな間違いをたくさんしてきたと思う。それらはデリカシーのなさ、もしくは無知と受けとられたことだろう。
異なる環境で育ってきた人を理解するためにできることは、二つしかないと思っている。
まずは事実を知ること。
本を読む、現地に足を運ぶ、対話をすることなどがそうだ。人との対話はもちろん、本にも展示にも誰かの主観が入り込んでいる。「主観」と「事実」を別のものとして理解することが大切だが、主観の中に事実が見出せることもある。Islamic Arts Museumで、イスラムの主観で中国との関係性が語られることで、逆にマレーシアが多民族国家であるという事実が浮き彫りになることなどがそうだ。
もう一つは、学んだ事実から想像力を働かせること。
震災で家や家族を失った苦しみや悲しみは、同じ経験をした人にしかわからない。しかし、全く同じ経験がなくても、自分の経験にできるかぎり引き寄せて考えてみることはできる。そうした想像力を持って自分とは異なる他者と接することができれば、相手は自分が尊重されていると感じ、よりよいコミュニケーションが生まれる。
これから先、特に私(30歳)より下の世代が、「一生日本国内で日本人とだけ関わって生きていく」ということはほぼ確実に不可能だ。日本でも「異質な他者」と共生していかなければならない時代がやってくる。そのための訓練をしておいた方がいい。
明らかに自分と異なる他者と出会い、かつ自分自身が常にマイノリティになる「旅」は、それまで知らなかった事実を知るにも、想像力の訓練をするにも最高の環境だと思う。
旅に出てみよう。