インド・スピリチャル物語(3- 1 )〜 海を知る 〜

(前話から続く)

 

これは真理を探し求める旅の話である。 
生まれたときから海のなかに住んで、その外に出たことのない魚にとって、海を知ることはむずかしい。 
それは、私たちにとっての空気のようなものだ。 
空気のなかにいて、空気とはなにか、かんじることはむずかしい。 
それはどこにいても手に入るがゆえに、あたりまえになってしまう。 


現代のように公害がひどくなってはじめて、あたりまえの空気が貴重なものとしてありがたがられるようになる。 
50年前までは水を買って飲むなど考えられなかったが、いまでは普通になっているし、20年前にインドでミネラル・ウオ-タ-を買うのは外国人旅行者だけだったが、今ではインド人さえそれを買うようになってきている。

そのうち、空気もボトルにつめられて売り出されるかもしれない。 
空気は汚されるがゆえに、純粋な空気とはなにかということがわかる。 
水は汚されてはじめて、きれいな水とはなにかということが意識される。 


しかし、私たちは本源(ソ-ス)と片時も離れたことがないがゆえに、またけっして汚されることがないがゆえに、本源とはなにか知ることはたいへんむずかしい。 
それなしで暮らしたことがないので、それと自分のあいだに距離をかんじることがむずかしいからだ。 
なにものも、距離がなければ認識することはできない。 
認識できるものにはすべて限界点があり、認識しようとするものの限界点とのあいだに距離ができてはじめて、認識できるのである。 


むずかしく言う必要もない。単純に言えばこうなる。 
あなたの目は、目の前にあるあらゆるものを見ることができる。 
しかし、自分の目を見ることはできない。 
試してみれば、すぐにだれにでもわかる単純で不思議な事実だ。 
鏡で自分の目を見ることができるじゃないか、と言うかもしれないが、それは鏡に映った反射を見ているのであって、目を見ているわけではない。実際には、鏡を見ているのだ。 
だから、あなたの目はこれまでにあらゆるものを見てきたが、自分の目そのものを見たことはけっしてなかったし、これからもないだろう。 
なぜなら、「見る目」と「見られる目」とのあいだに距離がないからだ。 
同じことが、ほかの感覚器官にたいしても言うことができる。 


耳はあらゆる音を聞くことができるが、耳そのものを聞くことはできない。 
試してみるといい。 
舌は毎日あらゆる食物を味わっているが、舌そのものを味わうことはない。 
味わうためには、なにものも舌の上にのらなければならないが、舌が舌の上にのることはありえないからだ。 
鼻はあらゆる匂いをかぐことができるが、匂いをかぐその源の匂いを識別することはできない。そこはニュ-トラルなゼロ地点である。

 
そして、触覚もまたそうだ。 
たとえば、右手で石に触れればかたいとかんじるが、右手で右手そのものをかんじることは不可能である。右手のなかにある痛みや、電気的なエネルギ-や、空気の暑さ・冷たさをかんじることはできる。だが、それらは右手のなかやまわりにある何かであって、右手そのものではない。 


ひとつひとつ自分で確かめてみることが大切だ。 
感覚器官は、この肉体(ボディ-)と心(マインド)が二元性の世界で生き延びるために与えられたセンサ-だ。 


それはブッダによって5頭だての馬車にたとえられる。 
五つの感覚器官が5頭の馬であり、肉体が馬車であり、心がぎょしゃである。 

そのすべての目的は、馬車のなかにいる主人を無事に送り届けることにある。 


主人とはだれだろうか? 
――それは、あなたの本性だ。 
それは神とも呼ばれ、真理とも呼ばれる。 
真我とも呼ばれ、本源とも呼ばれる。 
言葉の違いに惑わされてはならない。古今の多くの師たちが、自分の悟りを表現するのにもっとも適当な言葉を選び、用いたにすぎないからだ。 
このような表現のことを「月をさししめす指」であるという。

 
それらの言葉は、地球上のさまざまな地点からひとつの月をさししめしている多くの指である。ひとつひとつの指の違いに惑わされてはならない。指は重要ではない。それぞれの指がゆびさすさきには同じひとつの月がある。

同じひとつの真理がある。それが重要なのだ。 


それを実現するためには、探求の旅に出なければならない。 
それは不思議な旅になるだろう。

なぜなら、それはすでにあるものを探し求める旅になるからだ。 
海から生まれ、海で育ち、海に暮らしている魚が、海を探す。それは不条理な旅にならざるをえない。

同時にこれほどすばらしい旅もない。 
魚はあるとき海からはじきだされ、そして舞い戻ったとき、海を知った。 


これを――聖なる事故(ディバイン・アクシデント)――という。なぜなら、それは魚の努力によって達成されたものではないからだ。 
それは存在そのものによって用意された、もっともすばらしいギフトだ。 

 

 

「私は誰か」探究の旅に出よう!

本気でやれば、誰にでも聖なる事故は起こる。

*ビパッサナ瞑想リトリート in  MIYAZAKI  10日間の旅
(最初の3日間だけの参加も可能です)
2024年 4/27(土) - 5/6(月祝)