「瞑想とはなんですか? 」と聞かれることがあります。

と、一瞬「フム」と考えてしまうのですが、それは瞑想のなかにいろいろなアスペクトがあって、その人がどこにいて、どんなものを思い描いているのか、ということから、出てくる答えが変わってくるからです。

 

「瞑想」という言葉を辞書で調べてみると、「目を閉じて深く静かに思いをめぐらすこと」、「何かに心を集中させること」というようにでています。

が、これは東洋と西洋の概念の違いと、翻訳のときに言葉を当てはめるところからくる混乱の結果です。

キリスト教のなかで神に心を没入させて、一心に祈ることを、東洋の瞑想と同じものだと思ったので、間違った訳語が生まれてきたのです。

 

もともと仏教では、瞑想という言葉は使わず坐禅という言葉を使っています。

通常、瞑想という言葉は、ひとつには、あらゆる想いがなくなっている状態をあらわす言葉として用いられます。 

何かにたいする考えや想いなどが寂滅している状態、心をわずらわせるようなものが何もない(無の)状態、心配や不安などのネガティブな想いもなく、また、日常のなかで体験するうれしさやよろこびといったポジティブな感情からも解放されている、という状態です。

 

そういった状態をインドでは「ディアン」(冥想)と表現しました。

もう少し的確に表現しようとするなら、あらゆる「動き」や「状態」さえも消滅していったところ、そこのところを指さして「ディアン」(想いが冥する)と言いました。

これを、それ以上言葉で表そうとすると、本質からどんどん離れていってしまうのです。

 

禅の人たちはそれを指し示す最低限の言葉、できるだけマインドの想像をいっさい許さないような言葉として、「これ!」だとか「無」だとか「空」などという言葉を使いました。

 

そして、古今東西の瞑想の師たちは、インドでも、中国でも、日本でも、みなおしなべて、そこには普遍の静寂、普遍の平安がある、と言っているのです。

 

もうひとつ、普通、人々が「瞑想をやってます」とか「あの瞑想はいいですね」などというようなかんじで、瞑想という言葉を使うときですが、それは実際には「ディアン」(冥想)へ向かうための手段、方法論という意味あいで使われます。

 

方法論としての瞑想は、一つの区切りとして30分とか一時間とかの時間のなかで、呼吸を見守ったり、マントラを唱えるなど特定の方法にのっとって修練する短いスパンのものと、奉仕や、祈りや、師への服従と学習などといったものを自分への課題として、全人生をひとつのスパンとして修練していくもののふたつがあります。

 

そして、通常は、その両方の手法が人生のなかで微妙に入りまじり、精妙に溶けあって、自分自身を成長させていこうとしていくわけです。(続)

 

 

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