
ひとりで観る映画のように、自然の中に独りで佇むと、ふと優しい気持になれたりする。
誰かと交わす言葉もないのに、なんだかいいよなぁなんて、見上げる樹々の間からこぼれる陽射しに目を細めて、とても穏やかな気持に心笑顔になってる自分に気がつく。
音を交わし、言葉を交わし、互いに笑顔になってる日常もまた、とても心地良いものだけれども、無限の慈愛に満ちた自然の寛大さに触れる時、僕はみずからの存在さえもそれと同化したような何とも言えない心持ちになる。
森の中にいるととても静かで、風の音や川のせせらぎ、揺らめく草や木の葉、どれもみな命に充ち輝く笑顔に見える。ふと思いを寄せると、自然の溢れる命に同化する気がするのは、はたしてなにを意味するのかと不思議に思うことがある。
すべてがふるさと、心の故郷、懐かさしと何故だか嬉しさが気持の底から込み上げてくる、この繋がりを感じることこそが、生きる意味なのかも知れないなと思うことがよくある。
古よりひとは、頭を使い、ひとならではの進化をしてきた、それはひととひと、心と心の喜びとなって、より善く生きようとする現代のひとの心にちゃんと培われているはず。
そういうひとを見守り、挫けそうになったり、心一杯になって溢れそうになる思いをいつでも受け取ってくれるのが、常に隣にいてくれる自然の慈愛なのかも知れない。
時代が進み、ひとが進化して、その影響で環境破壊などとみずからが危ういことになって、本当は悲鳴をあげたいはずなのに、ただただ静かに痛みを堪えながら、これまでと同じように僕たち人間が笑顔になれるように支えてくれる自然。
自然に、自然であればとよくいわれる言葉だけれど、この無償の慈愛こそが、自然にという言葉の意味として、ひとに教えてくれているのかもしれないと僕は思うし、目に見えるものとは別の、ひとの心の繋がりにも重ねてみて、その思いに応えていきたいと思う。
そんな自然の息吹溢れる季節がいよいよやってくる。
その果てしなく心を躍動させる力を、みずからの目の輝きに少しでも取り込みたくて、、
また今年も出かけてみたいと思う。
静かなる野山の、限りなく力強い命の声を聴きくために。