僕も含めて、人は自分自身を知らないものだと思うことがよくある。
人から指摘されて、素直に納得出来たり、時に心外に思ったり。
もちろん皆自分なりに自らを戒め、努力して斯くありたいと願っているはずなのだが、
果たしてそれがそのまま人には伝わっていないことが多い。
無意識だと人が言うことのほとんどを僕はそうではないと思っている。
人が目を覚ましている時、およそすべてのことは自らの意識下で行っていることは脳神経学を学んでなくてもわかることで、数多い経験から人はその瞬間瞬間を選択して生きている。
そして、いままさに自分に起こっている事象のすべては自らが招いた結果なのであって、
自分をどう振る舞わせ行動するかにかかっている。
これこそ意識せず知らず内に自分と共に育って来た自意識が成せるわざだと思う。
だから、人に見せている自分はすべて作為的だとも言える。
それは言い過ぎだとして、どんな自己かというのは自分の理解ではなく、人の心に映った自分自身ともいえる。山奥で独りで生活をしていると、そういうことも考えなくてもいいかも知れない。
それでも人は、自分はどういう人間なのか理解しようと客観的に考えてみるものだが、
この客観は巧みに自意識からでた客観を装った主観だと思う。
だから別の人格が指摘する自分を知ったとき、
仰天したい気持になったり買いかぶられてほくそ笑んだりする。
僕の言葉に一喜一憂する友人を見ていてそう思った。
そしていかに賢明でも、自分自身を自ら正確に理解するということは容易なことではないし、
映す鏡の大切さもまた重要なことだと思う。
僕自身こう書きながら、なんてめんどくさいことに僕も人も時間を費やすものか..、などと考えてしまうが、でもそれが「考える葦」と言われた人間なのだと思う。
高名な先哲の箴言は自己的なものではない。
対外的に、人に対して自分がどうあるべきかであると謳ってくれている。
だから僕は、自分を知る努力より人をより善く理解したいと、そう思っている。
そこ彼処に素敵な景色があるように、
目の前には無数の素晴らしい個性があるのだから。
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