織田信長とは何者か。南蛮胴に身を包み現代的な価値観と強いリーダーシップで、古い体制や秩序の破壊を進め近世へ時代を動かす役割を担いながら、志半ばにして本能寺に斃れる「革命児」。それが戦後、昭和の高度成長期からの評価だった。その高度成長期も既に終わり成熟期の近年、研究が進んでその評価は見直され、その人物像も大きく揺れ動いている。代表的な映像作品の大河ドラマでは主人公との関わり度合いによってこの評価を受けた新しい人物像と、従来の人物像とを巧みに使い分けている様だ。視聴者のイメージを意識した行動だろう。

 織田信長の人物とその評価

信長に限らず歴史上の人物とは、実際に当事者が生きていた当時どの様に見られていたかという同時代の価値観による評価と、人物が亡くなり時間が経過した後とではその評価も異なる事も多い。むしろその人物が活動した時代の価値観とは関係なく、その評価を行う側の生きる時代の価値観とそれまでの研究成果に依って、変わっていくものである。江戸期から明治以後の近代でもその時代により評価は変わってきた。二十世紀末から今世紀に入り、室町末期、戦国期のいわゆる中近世移行期研究が活発で、信長もその人物像もその政策も大きく見直され、現在進行形で当時の価値観からはどうだったかという実像が求められ、評価が見直され続けている。


信長は他者からの外聞を意識し、当時の常識に即した人物だったという見直しが近年の研究で進む一方で、当時の常識からも逸脱したと考えられる、諸説混在し定説を見ない行動も知られる。

例えば、将軍義昭追放後、天正三年に権大納言に任官、従三位に叙されてその後も右大将、内大臣、右大臣正二位に昇進する事で幕府に替わる武家権力者として認識されながら、その後突然天正六年に官職を辞してしまう。当時、最大権力者の信長が無官という状態は異常だった様で朝廷は度々復官を打診するが信長は死ぬまで断り続けていた。

話は前後するが、自らが推戴し復興に尽力した足利義昭の幕府との関係も朝廷との関係同様だったと言えよう。義昭と共に上洛し、将軍就任を実現させた信長の功績に対し、義昭は尾張守護家の斯波氏家督と副将軍職、さらに「御父」との尊称まで与えて報いようとしたが、これらを断った。最終的には「御父」という擬制的血縁関係と「桐御紋」「引両紋」だけを受け、幕府組織内肩書を持たなかった。朝廷や幕府という公儀の最大支援者で有りながら序列的な制度を嫌い距離を置き続けた信長の姿勢は、当時の常識に照らしても異質だった。(幕府将軍とその支援者としての関係は義昭の父、義晴と六角定頼の先例に倣ったという説もある。)

信長自身は将軍や朝廷との関係をどの様に捉えていたのか。これには信長自身が西洋ポルトガルよりの来訪者で宣教師のフロイスが願い出た、京都での宣教許可を巡っての発言がフロイスの著書「日本史」に記録されている。

彼(信長)は大勢の貴人がいる前で私(フロイス)に向かい、「内裏も公方様も気にするには及ばぬ。すべては予の権力の下にあり、予が述べることのみを行ない、汝は欲するところにいるがよい」。

後年、同じくイエズス会の巡察使ヴァリニャーノが天皇への面会を望んだ折には「予がいるところでは、汝らは他人の寵を得る必要がない。なぜなら予が(天)皇であり内裏である」といった。これらの発言からは信長が幕府や朝廷のすすめる肩書を辞退して制度内に取り込まれる事を避けながら、信長に頼らねば立ちゆかぬ上位権力を相対化し、自らの格を上げる狡猾な人物にも見える。しかしながら前著三好義継の天下でも述べたが、当時の社会通念では所領安堵などの訴訟は訴える当事者が自らに有利な判決を期待して、訴訟先を選択するという現実としての実力本位の側面が有り、義昭幕府の軍事的武威と統治は信長の軍事力による協力が有って初めて成された為、嫌でも信長は判断を示さなければならない、係らなければならない側面がありこれをどう捉えるかでその人物像も印象は変わるだろう。

信長は世間の評判、外聞に敏感で行動の判断基準としたのみならず、他者にも強くそれを求めた。将軍義昭にもそれを理由に意見している。永禄十二年の殿中御掟は幕府機能健全化を求めた常識的な内容だった。義昭による幕府運営を見て、信長は自身が理想とした幕府と乖離する点を改めて窘めた。しかし元亀四年の条書の内容は君臣の間であろうとその文言は感情的であり度を越していて、公にされている以上、義昭としてもこれでは挙兵せざるを得ない。その後義昭の反応に、逆に驚いた信長は人質を提出してまで詫びるが拒否された。もしかすると信長自身が義昭幕府が存立する背景、すなわち信長の加担によって幕府が初めて存立する現実を直視出来ていなかった。その苛立ちを爆発させ素直にぶつけてしまった。人間の行動は全てに合理的な理由があるわけでは無い。その後の顛末はご存じの通りである。

 フロイスや太田牛一の記録から見る信長の人となり


フロイスの記した日本史に信長を観察した記事が載っている。「非常に性急ながら善き理性と明晰な判断力と決断力を持ち、名誉心に富み正義において厳格。加えられた侮辱に対して懲罰せずにはおかず尊大で家臣の忠言に従わず、畏敬されていた。激昂はするが平素はそうでもなかった。日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。」「酒を飲まず、食を節し、睡眠時間が短く早朝に起床。人の取り扱いには率直。軍事的修練にいそしみ戦術にきわめて老練。戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強い。困難な企てに着手するに当たっては はなはだ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。きわめて清潔で自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賤の者とも親しく話す。幾つかのことでは人情味と慈愛を示した。」


太田牛一の信長公記では若き日の破天荒な装い 振舞いが有名だが、当代一流の師に各種武技を学ぶ姿が記され、フロイスの観察を肯定出来る正義に厳格なところや人情味を示す話が出てくる。例えば鉄火起請の不正を咎めて自らも焼いた鉄片を手で運び、不正を働いた男を成敗する話や、あまが池と呼ばれた池で目撃された、巨大な蛇の胴体に鹿の頭を持つ化け物を確かめる為、自ら池に入る話。美濃から上洛の往復路で見かけた、先祖の因果で代々乞食をする山中の猿という男に憐れみを掛ける話。武人としては桶狭間以外でも不利な状況を覆す姿が散見される。弟信勝との合戦で味方敗勢の中、敵勢が信長が大音声を発して怒る姿に恐れをなし崩れ出し、形勢をたった一声で逆転させた逸話。大坂本願寺の一揆勢が籠る砦を攻略しようと包囲の為に進軍した原田直政が、一揆勢の反撃により討死し、天王寺砦が逆包囲された時には京でこれを知った信長が即座に救援を決断し駆けつけ、急な出陣で兵数が集まらない中でも攻撃を実行、自ら前線で指揮を取り、負傷しながらも数千丁の鉄炮を持つ一揆勢を切り崩し救援を成功させた事など。

軍事的才覚は勿論、分岐点を見極める判断力に優れ決断を下せる、まさしく英雄的要素を持った桁違いの人物だった事は間違い無いだろう。但し自己の能力に優れ、実直に難題をはね返して成功を遂げてきた人物故にだろうか、他者の心理を想像する点に疎く厳しい面が見られる。これが恐怖政治として人々の目には写り、追い込まれた心理から度々背かれ敵を作ってしまい、最終的に命取りとなった様に思う。理想が高く完璧主義的な人柄が、遺された肖像画にも良く現れている。



 織田信長の甲冑軍装


宣教師のフロイスと度々親しく接した信長には、南蛮胴を着用したイメージが定着しているが、実はこの姿を描いたのは1980年公開の映画「影武者」が初めて用い、その後に影響を与えたのだとされる。記録上では南蛮胴が国内に登場するのは信長の死後、豊臣秀吉の頃にスペイン領のインド副王より贈られた西洋甲冑が初見になる。さらに実際に現存する南蛮胴は徳川家康が関ヶ原着用由来とする頃まで下る。当時のヨーロッパは鉄砲と集団戦への変化の過程で重装備の全身甲冑の衰退期に当たり、兜の簡素化や足甲を省いた半甲冑へと移行が進んでいた。ポルトガル、スペイン、続くイギリス、オランダによる海外遠征が盛んないわゆる大航海時代であり、その武装商船は乗組員たちの為に半甲冑を積んでいた。これらを日本人が早くに目にしていた可能性はあるが、恐らく武器である鉄砲が先に国内に普及し、防御である甲冑はやや遅れたと考える。記録上にある、公式に秀吉に贈られた甲冑が初めてじっくり観察される機会を国内に与え、後々南蛮胴へのヒントとなったのではないだろうか。時期的にも信長の頃には無くても自然だろう。


中部地方の尾張を皮切に畿内を治め、東は甲信から関東、西は中国地方にまで及んだ信長の最大版図。信長が活動したおよそ二十年の間には全国的にも国単位、更には数カ国を併合した強大な戦国大名が現れ、信長はそれらの戦国大名と西に東に直接干戈を交えた。信長だけが特別革新的な戦争を行った訳では無いが、動員兵力が増え戦場の広大化 は戦争の手法の変化を促していった。武器では鉄砲や槍が主役となり、身を守る胴丸、腹巻が改良を施されつつやがて当世具足に発展する。信長と敵対大名達の戦争は軍事面での技術や戦術などの変革過度期であった。現代の我らがイメージする戦国武将の装いが誕生するのもこの頃からで、後に安土桃山文化と呼ばれる武家をはじめとする服飾の変化は、信長と大名たちの戦争が大きく影響を及ぼしたと考えられる。

今回の軍装想像では永禄末~元亀期の上洛初期の姿と晩年、天正八年~十年に掛けてその絶頂期の頃の姿の二点を描いた。ここからは信長の軍装を通じてこれらの時代的特徴を追ってみたい。先ずは今回の足半の件に近い上洛前後の若き姿より紹介しよう。


 永禄十二(1569)年上洛前後想定の軍装想像図の見所


信長の甲冑は、本能寺の変後に織田家が没落した為か信長の所縁が有る甲冑は非常に少ない。建勲神社伝来の紺糸威胴丸は桶狭間の際着用との由来を伝える有名甲冑だ。兜は総覆輪の筋兜。鍬形の中央の祓立に織田木瓜の家紋を立て、大袖に喉輪、籠手と佩楯に脛当が揃う。但し現在の姿は江戸期に改修を受けてからのもので、前立や佩楯以下の三具はその際に備えられたと考えられ、信長所用の伝来がそうだとしても信長が着用した当時の姿を伝える物では無い。

一方で上杉謙信が信長より贈られたという伝承の甲冑が存在する。この甲冑は永禄十一(1568)年、年内に予定された足利義昭を擁して上洛戦を計画する信長が、その協力者としての期待から謙信と遣り取りした書状に見える「糸毛之腹巻 同毛の甲進覧」に該当すると考えられている重要文化財指定を受けた胴丸で、信長が自ら着用の為に拵えさせた甲冑では無いものの、その仕立てられた仕様が時代的特徴に合致し、恐らく威色目が違う程度に同様の甲冑を信長は着用していたと判断して良く、信長が関わったという広義の意味でこれを着用させた姿で描かいた。


西国、畿内のこの当時の流行として甲冑の華美な仕立てが特徴で、この胴丸を形作る小札は総金の箔押しに、威しの糸も紅、萌黄、白、紅、紫で段威として多色を用いている。胸板などの金具廻の幅が広く、その韋所も鮫皮に漆を塗   り研いだ「研出鮫」を貼る。伏組や耳糸、八双金物などにも従来と変わる新式を採用し、腰を絞った上、草摺も十一間の分割、図では見えないが背中を守る後立上も一段増加した四段としていて威色目や冠板が同仕立ての大袖とあわせて保存状態良く現存する。恐らく当時は兜も存在した筈で、ここからは想像の範囲になるが、こちらも畿内での類例から阿古蛇形の総覆輪筋兜に韋所や威が胴、袖同様の仕立てとした。また籠手、佩楯や臑当といった三具も金箔押としたが、金や銀の箔押の多用もこの頃の畿内、西国の趣向で、信長に限らず上方はこの様な派手な装いも珍しくなかった。

 肩衣について

鎧下は肩衣を着用している。従来、武者達は鎧下には永く常服の直垂に比べ細く仕立てられた鎧直垂を用いてきたが、この直垂の袖を省略した肩衣が利便性が良く、幅広い層で陣中での着用が十五世紀半ばの室町時代中期頃、応仁の乱以降より定着していた。平時に置いても下級武士から広がり十六世紀初頭の室町末期には将軍が対面の場でも用いた記録が登場し、やがて正式に公式の場に置いても容認され後の裃の元となっていく。肩衣が常用される様になると本来下着であった小袖も表着として意識される様になる。



当時武家の慣習として「対面」の席には、宴席や能楽の鑑賞が重要な政治儀礼であったがその際、「素襖引」や「肩衣脱」といい、貴人が宴席で杯をさした人物や能楽の役者に対して、自ら着用のこれら上衣を脱いで与える風習があった。その為、上位の武士階層者は上着を脱いでしまっても見劣りのしない立派な装いとして小袖にも気を配り、これがより小袖の美麗化をもたらしたと言っても過言ではない。信長は信長公記にも度々耳目を集める異装や馬揃えを催すに当たり豪奢な美装を参列者にも求めており、その独特の美的センスで強烈な印象を人々に与え、安土桃山文化の牽引役として存在感を示したに違いない。

足元は信長公記の記述により足半を愛用したと見られる事から足袋に足半を履き、腰には金松又四郎にも与えた予備を下げている。奇抜なファッションセンスの信長に地味な足半は一見不釣り合いだが、足半の利便性を考えると信長の好みに合致していて如何にも相応しい。



 天正八~十(1580~1582)年想定の軍装想像図の見所


元亀四(1573)年、足利義昭と決別した信長は朝廷が要請していた改元に義昭に代わって携わり「天正」とその年号を改めると、義昭の「捨て置いた」 天下を差配する立場に置かれた。この頃はまだ手元に居た義昭嫡男(後の義尋)の擁立による幕府存続を前提としていた様だが信長は敵対勢力との対決を進め、やがて宿敵武田勝頼を長篠で破り、一向一揆を殲滅して一揆勢に奪われていた越前を再平定すると、天正三(1575)年には従三位 権大納言、次いで右近衛大将に任官して義昭の官位を超えた。織田家家督を嫡男信忠に譲った事により足利家に替わる武家政権の長としての意思を表し、翌年には安土築城を開始する。畿内よりその勢力圏が外側に拡張しだし、織田家中では天下という言葉は畿内のみならず国内を示す様になり、その天下一統を目指していく。この頃から信長は東を嫡男信忠、北陸を柴田勝家、畿内では佐久間信盛を抜擢し地域ごとにその方面を担当させた。自らが直接合戦を指揮する機会が減っていった信長は各地の視察と支援を行い、信長の着陣が見込まれる地域には信長の為の本陣御座所が用意された。


 陣羽織と鎧下着(具足下着)について


戦国時代の装束として馴染みの深い衣装である陣羽織が登場するのもこの頃だ。

各方面では敵対する勢力も一カ国から数ヶ国を領する大名となり、各地の前線では境目の城に対して設けられた付け城による包囲を大規模に行う長期戦に移行していく。付け城による対陣は長期滞陣をもたらす為に各方面では上級武者は小具足姿で過ごす事が多くなっていっただろう。当初は寒暖を凌ぐ為、そして小具足姿でも見劣りせずに対面などをこなす必要から、この上に纏う上衣として羽織や道服が用いられた。



やがて甲冑の上にも纏う戦衣として発展する。陣羽織は袖の有無や身ごろの輪郭線も一定の決まりが無く素材も自由で外来染織品もふんだんに用いられた。戦場の外衣として流行しやがてこの時代を特徴付ける装束として定着していく。信長は視察の傍ら、鷹狩りや乗馬、土地の名勝の見物などで時を過ごしているが、この場合はもちろん、最早  戦場の視察であっても鎧の着用は無く、軽快な小具足姿であったのではなかろうか。この小具足姿でも天下人としての武威を誇示するのに信長の陣羽織は特別豪奢で、斬新な衣裳としてデザインされたのではと思えるのである。甲冑に比べると信長由来との所縁を持つ陣羽織は多く遺されていて、非常に資金も手間も惜しまず制作されただろうと圧倒される。この二枚目の軍装想像図ではそんな絶頂にあった信長の陣羽織小具足姿を描いた。陣羽織は東京国立博物館蔵品の「揚羽蝶紋 黒鳥毛陣羽織」である。上半身は鳥毛、下半身には裂地に唐花模様を織り出し上下で異なる仕立て。下半身にプリーツが入ったデザインは僧侶の着用する直裰の袖を落とした様にも窺え、肩衣がこの頃には公的な場にも認められる形式まで昇格していた事を考えると、信長の世代では袖無しが違和感無く受け入れやすかったのではないか。そんな感覚がこのデザインを産んだというのはいかがだろう。


小具足の下には鎧(具足)下を着用。鎧下とは鎧直垂よりも更に簡易化が進んだ衣服で、小袖の様に袖口を細くして籠手を装着し易く、袴も膝下までのものや膝下を絞って脚半を取り付けた物など動きやすさと小具足の装備に便宜を計った着衣。ボタン掛けや立襟など南蛮人の衣服の影響を受けて仕立ても現代の洋服に近い物も多い。この信長の鎧下も喉輪より覗く立襟形式の首周りなどにその特徴を見ていただきたい。



 頭部は長篠合戦図屏風などに見える様に烏帽子を被らない露丁頭に、直接鉢巻を巻いた姿で、額に括りめを持つ向こう鉢巻である。月代についてもすでに広く普及してそれが当然の様に思えるが、信長の周りを見ても重臣である柴田勝家、丹羽長秀。母衣衆も務めた前田利家など肖像画を見るに総髪と思しき者も意外と多い。月代も抜く手間や痛みを考えると、剃るという手段が定番になって初めて常識となるほどに広がりを見せたのかも知れない。

足半を愛用した信長もこの頃には予備を腰に下げずとも済んだか、或いはその陣羽織の下にはやはり下げていたのかは、読者の皆さまの想像にお任せしたい。若き頃と晩年の姿でこの時代の特徴を表した。二枚を見比べてその変化を楽しんで欲しい。



今回の織田信長軍装想像図を左右に配したA3サイズの見開きページを含む製本版、「織田信長の足半」が製本直送様よりお求めいただけます。丁寧に描き分けた札や威糸に、陣羽織の羽毛まで詳細な画像をぜひお手元でご覧ください。