「三十八間総覆輪筋兜」

慶長五年、北の関ヶ原と呼ばれる出羽長谷堂合戦。この合戦で上方での戦況を知り撤退する上杉勢を追撃する最上義光が、着用したという伝承を持つ兜である。その真向には弾痕が残っている。

左側の篠垂を失い覆輪が歪む。流れ弾ではない、明らかに正面より銃撃を受けた傷痕。この時の義光の軍装が後に曾孫により江戸幕府に提出された「最上家伝覚書」に記されている。
 
一、景勝と合戦之刻、自信長賜候桶革胴之甲冑を帯シ、出羽守相働候刻、鉄砲玉甲の真中に中り、筋金相窪ミ申候
 
伊達政宗と並び立ち出羽を代表する戦国大名、最上義光。今回はこの家伝覚書の記録と激しい戦闘を物語る伝承兜を頼りに、義光の着用した桶革胴とはどの様なモノだったのかを想像してその意図を読み、また桶側胴といえば当世具足を代表する主要な形式であり、その桶側胴を含めた当世具足誕生を探ってみたい。

 

 

 
桶側胴とはどの様な形式を指すのか。
その名称が登場するのは足利時代末葉から(山上八郎氏著書「日本甲冑の新研究」)で、
「くろがねをあつさ五分にきたはせたるを、をけがはどうと名づけて…」(高舘草子)
「尾張国には桶皮筒には事かはり、胴丸とて右の脇にて合せ、伸縮自由なるを以て…」(太閤記)
「一ぐそく、はらまき、おけかハどう…」(穴山信君具足注文書)
「桶がは胴の腹巻に…」(北條九代記)などと多くの記録にその名は登場し、中古甲冑製作辨」に「天文永禄の頃、尾州にて造初めしと見ゆ」上の通り胴丸形式でも腹巻形式であろうと板札を横矧ぎに重ねた外観を由来とされている様子。尚、板札を横矧に綴じつけた胴を持つものには金腹巻、金胴丸と呼ぶ甲冑が既に存在し、これを義光の足元、出羽最上の地で盛んに製造されて、或いは発祥地として最上胴と伝える形式がある。
 
 
 
これまでの研究でも指摘され、前述大袖捜査網回とも重複するが、打物武器の使用が盛んになるのを経験してきていた事で小具足を充実させて隙間を無くし、徒歩戦闘への対応が腰部を絞り重量を腰に負担させる改良が行われてきた。
 
従来の甲冑、大鎧、胴丸、腹巻と、当世具足の最大の違いは胴裏に立挙から発手まで一枚革で包み、その胴部分が足掻きの無い「立胴」形式で有る事。
 
つまり胴部分が従来の甲冑と違い柔軟性を無くした作りとしたことである。柔軟性を無くすこの立胴としたことの利点は、甲冑の重量を腰で負担する構造をより確実なものにする事にある。そして立胴形式とする事は胴全体で構造的強度を増し、副次的に腹部と胴との間に隙間を作る事が可能な構造を生じ、これに打撃や衝撃を緩和する効果を期待したのではないか。例えるなら自動車のモノコックの様であり、狙いとしてはこれは兜の受張と同様といえる。これがさらに改良が進んで中世甲冑の腰窄まりの逆三角形の形状から、胴に丸みを帯びた形状に発展していったのだろう。
 
「隙間無く包んで防護する事、活動機能の向上は、甲冑史上常に志向されたことである。とりわけ中世末期から近世初頭にかけて展開された熾烈な戦闘により、この傾向は一層顕著になった」(山岸素夫氏 宮崎真澄氏共著 日本甲冑の基礎知識)
 

 
これまでの古甲冑とは急速に且つ劇的に姿形を変えた理由は何故にだろうか。「戦闘がより熾烈」になったその理由が、最近提唱された学説にヒントがある様に思う。
「旗本が旗本を直接攻撃する無骨な戦術を前にして、旗本そのものを巣隊の戦力として強化する必要が生じた」(乃至正彦氏著 戦国期における旗本陣立書の成立について 武田氏研究第53号)
 
直属の旗本を増強し戦力として活用する志向が東国で試みられ戦術の発展を促進し、これが指物甲冑にも影響したと考えるが如何だろうか。織田信長の赤母衣 黒母衣衆、豊臣秀吉の黄母衣衆や武田家中の飯富、山県の赤備、次弟信繁の黒備等も大名のそれに倣って築いた精鋭部隊が有名になった者達なのかも知れない。
 
村上義清と上杉謙信が最初に手掛けた旗本の軍備を規定し兵種別による運用という戦術(同氏著 「戦う大名行列」)は、鉄砲が伝来より短期間で全国に広がった様に、統一された指物や最新鋭の甲冑を纏ったエリート部隊を各地の大名家中に伝播登場させた。視覚的にも、そして戦力的にも差別化された旗本の増強を大名達は競い、改良甲冑を着用させた。その旗本同士の激突が熾烈な戦闘を招いたのだろう。
 
そして金腹巻、金胴丸から発展した桶側胴はその構成から甲冑の中で基準的な地位を確立して、現在知られた形に狭義に定義されていったのだと考える。
 
 
 
その点留意して長谷堂合戦を見てみる。
 
義光の先陣が兼続の銃隊弓隊の重厚な備の射撃に引き退くと、これを見て義光は自ら先頭に立ち旗本を投入した事が最上記に記されている。旗本の近習達と共に矢面に駆け、多数の犠牲も厭わず突き崩す。この戦況の変化に兼続も又その近習三百騎で最後尾の前線まで戻って突入、再度最上勢の士気を削いで遂に虎口を逃れる事に成功した。
この様に戦況変化の決定的な戦闘は両軍共に旗本近習らの直轄集団の投入タイミングが勝敗を左右する要素足り得たといえよう。
 
義光はこの合戦に、信長より贈られた桶革胴と筋兜を着用し合戦に臨んだ。
 
この合戦は慶長五年、信長、秀吉による全国統一を経た時代、近世初頭に行われた合戦である。既に謙信や信玄 信長も存在せず永禄元亀、天正と彼らが試行錯誤を重ねていた頃よりも陣立も甲冑も発展し、彼らの時代のモノはやや旧式の感が有り得ただろう。殊に秀吉政権の誕生、そして朝鮮出兵は全国の大名を招集し、協力して外征する経験を得させた。改良が加えられてそれが広く採用されていくには秀吉の時代はうってつけでまた急速に改良も進んだ時代でもあっただろう。
 
時代に対応して改良が加えられても古式な形状が格式高いとする価値観までは変わらない。特に兜は頭部を守る重要なパーツで身分標識でもある。精神性を宿したシンボル的な要素も否定出来ない。その様な理由だろうか、現在遺る冒頭の兜は兜鉢は当初のままに眉庇、錣と鍬形に手を加えている。
この様な改造例は他にも見られる様で、類例が見られる。
 
義光が纏ったこの信長より贈られた桶革胴とはどの様なモノだったのだろう。
義光が信長と接触したのは天正二年でこの年、信長の斡旋により出羽守に補任される。この頃、義光は父栄林との家督を巡って周辺地域をも巻き込む紛争の最中に有り、義光の方から形勢を有利に運ぶ為に接触したものか。
翌年武田勝頼との長篠合戦で勝利した信長は奥羽の大名にもこれを知らせ以後外交を活発化させる。不確かながら義光は天正五年には上洛し信長に謁見したとされるが、奥羽の大名の中では逸早く接触した義光が、外交チャンネルを太くして地盤の安定を図る意味では有り得る。信長より賜る可能性としてはこの三年の間が可能性が高い。
 
信長が外交で贈った甲冑では上杉家に遺る「金小札色々威腹巻」が存在する。同家には同じく信長より贈られた「紅糸威壺袖」も存在し、研究者竹村雅夫氏はその著書「上杉謙信・景勝と家中の武装」で色々威腹巻を永禄十一年、紅糸威壺袖(が添っていた具足)を天正二年と比定されている。
 
 
 
今回小札を綴じ付けた上記の腹巻、壺袖を意識しつつ、小札を綴じ付けた従来の具足とせず、この頃次第に普及しだしていた鉄板札製で蝶番を用いた金胴丸形式、所謂最上胴丸とした。しかしながら、小札より板札の形状違いのみならず上下方向に屈伸しない、足掻きを止めた立胴形式を採用した新型胴である。後には常識となる当世具足の特徴を採用した事で、武田氏に勝利した信長が前年より住んだ安土城で、義光にこの胴丸を授け時代の変化を見せつけたと想像すると面白い。
 
子孫の時代では立胴形式が一般的でこれを「桶側胴」と記したのではないか。全てはこの一文より飛躍気味の個人的想像に過ぎないのだが。
 
 
義光は出羽庄内を巡って上杉氏とは抗争し、秀吉の裁定では上杉家中の本庄繁長の子、大宝寺義勝に出羽守の称号を奪われている。信長の桶革胴をわざわざ着用してこの合戦に臨む事で、自身こそが出羽守だという思いを託し、鬱憤を存分に晴らしたに違いない。