高屋城。守護大名畠山氏の居城。南河内の支配拠点として、戦国の幕開けを告げる当事者によって取立てられたこの城は、戦国時代の約一世紀を通して争奪が続き何度も城主が入れ替わりました。

城の遺構を求めて訪ねてみた、現地の実際を。

縄張り図と比べれば、現在の地形や道路に城の存在が窺えるのが分かる。これを元に遺構を訪ねたい。



現在の地形(Googleマップで)に縄張り図と終戦直後の米軍の航空写真、この二つを重ねて見ています。こうして見てみると城跡が概ね遺っている事に気付きます。地形に一部残っていると聞く土塁、東高野街道が
城内に引き込まれている本丸辺りに見える木の茂った小山がそれらしく見えます。








羽曳野市教育委員会作成調査報告書(一九八五年)によると、これは小字名で「矢倉山」。正しく土塁である証拠。「基底部幅十五㍍、天場幅四㍍、高さは外側より見て五㍍、城内よりは二㍍を測る。」と。






件の土塁を見に。現状でも三~四㍍は有りそう。上は木が森の様で良くわかりませんが、丸で壁の様な迫力。本丸を守り高野、竹之内両街道を監視する重要さ故にこの巨大な土塁を成し、堅牢な矢倉をこの上に乗せていたのだろうと。この高屋城の築かれた辺りは城全体が大地状に小高くなっていて、内側との高低差もより際立ちます。

羽曳野丘陵を利用して築かれた城は恐らく何度も改修が行われ初期と最末期では防御の点から変わっていっただろうと想像します。

最後の攻防は天正三年四月、寄せ手は織田信長で自ら駒ヶ谷に着陣、総勢十万で攻撃させその様子を小高い駒ヶ谷山から眺めたといいます。城主三好康長が降伏して城は破却されました…

筈でしたが最新の研究では廃城時期は秀吉の大坂入城の天正十一年であろうとされ、僅かですが延びました。


信長が本陣を置いた駒ヶ谷方面を見る。


城跡は昭和三十年頃まで残存していたそうですが、高度成長期に宅地開発されて地表からは消えてしまいました。

これ程の戦歴と城主の歴々を見るに地方の小城で済む規模では無く、何も遺跡の整備がされていないのは正直、惜しい…。現在は閑静な住宅街ですので住民の方の生活に影響を与える整備までは思いませんが、せめて件の土塁だけでも史跡として分かる最低限の整備保存(草木を除くとか)が成されても良いかと思います。

…いや、そんな歴史を持つ城で在りながら今では忘れ去られひっそりと佇む、その姿にこそロマンが感じられるのかも…などと複雑な感情を抱くのは私が毎日眺める機会を持つからかも知れません…。