坂東の雄、北条氏。
五代およそ百年に渡って関東に独立した分国を拡大し続けた覇者は、どの様な甲冑を身に纏っていたのか…
天正十八(1590)年、豊臣秀吉の前に膝を屈し翌年、嫡流の氏直が没した為か、当主たちの遺品は現在知られていません。

今回は北条氏
を取り上げてみたいと思います。

ヒントは関係者の古河公方の遺品、狭山藩北条氏の遺品、一族の兜等から。これ等を見ると北条も又、素懸縅具足だろうと見当を。戦国大名では官僚的な分国統治を構築した最も先進的な辺りも、それを後押しする根拠(但し今の所…)



上杉武田の甲冑にも家中共通の特徴がある様に、北条氏にも有るだろう。相州明珍による小田原鉢という筋兜に特色が有る様子。兜はこの相州鉢が無難か。



氏康所用と伝来の兜。特徴から相州明珍鉢でも無く氏康所用にしては簡素過ぎる印象。仮にそうなら曳き回しが有っても良さそう。曳き回しは東国では珍しく、三方ガ原でこれを着けていた徳川の武士より武田の武士が奪った、という逸話も。
貴重な曳き回しは当主層のみが着用していたと想像すれば、許されぬ姿だったのだろう。 (後日知りましたが、井伊達夫氏の著書にてこの兜鉢は氏康所用という点は否定されています。)



こちらは足利正氏(1489~1512)所用という具足。時代的にどうだろう、その頃は胴丸腹巻が主流で、これは足利義氏(1552~1583)所用と考えれば妥当と思える。ここで注目したいのは古河公方の具足でもこの様に実戦向けなモノという点。古河公方を推戴する北条氏がこれより非実戦的な具足を用いるだろうか。

近隣の佐竹義重も蝶番(ちょうつがい)多用の遺品が。件の狭山藩北条氏の具足は二代氏信遺品で時代は違うが、特徴的な蝶番の用い方をしており先祖を偲んで同様な具足を制作した、その先祖の頃の関東では重宝された、きっとそうだと勝手に解釈。
古河公方遺品も蝶番最上胴であるし、地域的な特徴だった可能性は無いだろうか。 今回の人物は北条氏三代氏康、その人。

笹間良彦氏著書に「前、後、左脇胴、右脇胴を二枚に分割とした五枚胴にコクソ漆を盛り平滑な一枚板の如く仕上げた形式を雪の下胴と呼び、明珍系の甲冑師が得意とし関東で流行の為に関東具足といわれた。後に政宗が仙台に招き伊達家一統の云々」…有名な伊達政宗の甲冑が関東具足の流れを汲んでいた!
最早、迷いは無い、素掛縅板札五枚の最上胴形式が相応しいと判断。これで進めます。 北条氏は五枚最上胴で描かせて頂く。

氏康向こう傷の確かな話は分からんのだが、顔に傷が遺ったが致命傷では無い。この事から明珍系の眉庇が出張ったモノより、例の十二間筋兜の眉庇なら垂直に近く、こちらなら顔に刀の切傷なら有り得るのでは無いか。当然、面頰は未使用だろう。此処が切所と判断なら自ら打物戦を辞さない気概。

関東具足を追いかけていく内、古いその型を残す遺品が、実は上杉氏遺品に多く残るというかの事実!…上杉長尾は元々は同じ関東の出身、そう思い調べると竹村雅夫氏「上杉謙信景勝と家中の武装」にしっかり記述が!(さえもんの乏しい記憶力よ…)

永禄四年の長尾景虎の関東遠征…。瞬く間に領内を縦断された氏康は遠き川越合戦を思い出す。決死の勝利のその合戦で着用の兜を敢えて着用したこの姿に、北条氏の結束は固まる。(という想像で描いた)




北条氏康軍装図、完成です。前立は、月か天衝辺りが無難だろうとそうしました。相州鉢では無く遺品兜を着用させる為、氏康疵も付けました。顔に傷を被る打物をしたなら川越合戦が相応しいと考えたからです。忍耐強く思案する武人として描きました。

その跡の氏政、特に氏直まで進むとどちらに進んだのか。坂東の覇者としてより地方色を極めたのか、或いは西国からの影響もあり得たか…。今回は古河公方の遺品に合わせ氏康の胴も一枚の仏胴とせず描いたのはその後に発展したと、想定して。
氏政、氏直の頃には完成された具足として著名で政宗に採用されたと、考えたい。

後日追記 参考とした足利政氏所用具足ですがその特徴から氏康活動時期よりも遅れ天正末期、慶長初期と思われます。機会を見て氏康の具足はまた再考したいと思います。