八重の桜
大河ドラマ『八重の桜』が、いよいよ前半のクライマックス。
新政府軍が白河口を突破、二本松の戦いを経て
会津若松城の籠城戦が始まろうとしています。

会津戦争といえば、16.17歳の男子が飯盛山で
集団自決した白虎隊”。
そして、“ならぬものはならぬのです”という
愚直なまでの会津魂で、会津藩の女性、老人、子供まで
一丸となり戦ったことで有名です。
ドラマの主人公・新島八重もまた、その一人。
彼女は会津藩の砲術指南役の家に生まれます。
兄は、藩校日新館でも教鞭をとっていた山本覚馬。
会津戦争の折は、戦死した弟・三郎の装束を着て、
最新式のスペンサー銃を持って、
会津若松城に立てこもりました。
その姿に、“幕末のジャンヌダルク”とも
呼ばれています。
新政府軍が白河口を突破、二本松の戦いを経て
会津若松城の籠城戦が始まろうとしています。

会津戦争といえば、16.17歳の男子が飯盛山で
集団自決した白虎隊”。
そして、“ならぬものはならぬのです”という
愚直なまでの会津魂で、会津藩の女性、老人、子供まで
一丸となり戦ったことで有名です。
ドラマの主人公・新島八重もまた、その一人。
彼女は会津藩の砲術指南役の家に生まれます。
兄は、藩校日新館でも教鞭をとっていた山本覚馬。
会津戦争の折は、戦死した弟・三郎の装束を着て、
最新式のスペンサー銃を持って、
会津若松城に立てこもりました。
その姿に、“幕末のジャンヌダルク”とも
呼ばれています。
戦争後、山本家は困窮した生活を送りますが、
舞台を京都に移してから、がらりと異なる
人生の次の章が開けます。
京都府顧問になった兄の山本覚馬を頼り、
山本家は京都に移住します。
そこで出会うのが運命の人・新島襄。
そう、同志社の父です。

留学経験があり、欧米文化にも詳しかった新島襄。
男尊女卑の当時では珍しく、レディファーストをし、
妻を八重さんと呼んでいました。
ちなみに妻はジョーと呼びすてだったそうです。
学校を作りに奮起する新島襄に、山本覚馬は自分の土地
(元の薩摩藩邸・坂本龍馬によって薩長同盟が結ばれた場所)
を譲渡します。それが、今の同志社今出川キャンパスです。
同志社大学の祖となる同志社英学校、
同志社女子大学の祖、同志社分校女工場を開設。
新島襄と共に時代をリードした、
“ハンサムウーマン八重”でした。
新島襄亡き後、八重のもう一つの章がありました。
日本赤十字社の正社員になり、
日清、日露戦争で従軍し看護にあたります。
“日本のナイチンゲール”と呼ばれるのは
そのためです。
1932年、86歳になった八重は、すべての遺産を
同志社に寄付し、永眠しました。
葬儀は、この同志社女子今出川キャンパスにある
栄光館でいとなまれました。
ちなみに、私の入学式・卒業式は
こちらでありました^ー^。

