今日は・・・ | 石田紗英子 オフィシャルブログ

今日は・・・



私の育ての祖母・英子が亡くなったのは、4年前の今日。


朝方、妹から電話があったのを覚えています。



74歳の旅立ちでした。





4年前の夏、意味深に父から帰ってこいと言われたあの日。


母か祖母か妹が病気なんだと、ピンと察しました。


実家に電話をすると、明るい祖母の声。

“なんか、胃がドスンとして、検査受けてるねん・・・”


あ・・・何かあるのはおばあちゃんや!





検査結果がでるまで、おばあちゃんが胃がんだったらどうしようと

いてもたってもいられない数日でした。


そして、父からの電話。


“ええか、大丈夫か・・・。おばあちゃん、胃がんやわ。”


“そっかそっか。大丈夫。 わかった・・・。”


電話をきるなり、一人暮らしをいいことに、

わーわー泣いてしまいました。


そして、決めました!

当時、私は1年かけて客室乗務員の先任資格訓練中でした。

資格試験を途中で投げ出したくない。

でも、試験が終わったら実家に帰ろうと。


そして、実家から通えて、フライト数もこれまでの半分になる

航空会社を受けなおしました。

両親共働きなので、家事をやってくれていた祖母。

術後、弱るであろう祖母に代ろうと思ったのです。





先任試験を終え、お世話になった会社を去りました。


そして、祖母の手術。


ところが、予想をはるかに超えた早い手術でした。

がんが、あちらこちらに転移していたため、摘出できなかったのです。





新しい会社の訓練の合間に、祖母の病室を覗きに行ってました。

“さえちゃん、よう来てくれたなぁ。”

私が行くと、一番よろこんでくれるのを知ってました。

でも、“暗くなるから、はよ帰り。”と、心配してすぐ帰らせるのです。


そして、病室に置いてあるおばあちゃんのお財布から、

おこづかいを渡してくれました。



家族は余命を知らされてましたが、

“日にちと薬で治る、大丈夫大丈夫!”

みんなで励ます日々でした。


祖母は“そやなぁ、そやなぁ”と言ってましたが、

逆に私たちに気を遣って、合わせてくれてたのだと思います。





そんな祖母も、だんだん元気がなくなり、

体に管を通されるようになりました。


今思うと、最後のお見舞いになったあの日。

さみしそうに私を見ていたのを忘れられません。


その後東京訓練に入り、私は家族の中で一人、

祖母の最期にたちあえませんでした。


次に会ったのは、棺の中のおばあちゃんだったのです。






それから、今日でまる4年。


おばあちゃんは、お天気おねえさんになったことも

レポーターやキャスターのお仕事をしてることも

知らないけれど、本当はその姿を一番に見てほしい人なんです。


テレビの前で手をたたいてみてくれる姿が

目に浮かびます。



今の私は、いろんな人に出会い、影響を受けて、

支えられて、作られた石田紗英子です。


でも、赤ちゃんの時から大人になるまで、

芯の部分を育ててくれたのは、

両親であり、妹であり、

そして英子おばあちゃんであることに違いません。




あのおばあちゃんを思うと、なんだってがんばれる!

さぁ、今日も元気に挑みます!!