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あや工房

人生100年時代を生きるための
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 主題はAIであるが、その中身は、司法制度というルールの中で起きる出来事である。それを支えるのは法学だが、工学と同様、そこには過去の経験則がある。過去のエビデンスを抽出・解析し、それを積み重ねてルールとしていく。だからこそ、前例踏襲を旨とするのは当然なのだろう。人が人を裁くには、それ相応の理屈と根拠が必要である。

 被告が生身の人間ではなく、しかも前例が存在しないという点で、この裁判は注目される。まさに、近未来の司法を先取りした光景でもある。

 『被告人、AI』――中山七里著――を引き続き読んでいる。

 

https://note.com/saekiworld/n/nfffd746d9df0

 

 

 

 何度もNHK Eテレの『猫メンタリー 猫の杓子も』を登場させて申し訳ないが、猫好きの作家も実に多種多様である。言葉を選び、どう紡ぐかに悩む作家もいれば、事前にいかに入念なプロットを仕立てておくかに注力する推理作家もいる。本人は、元IT技術者であることの影響かもしれないと、自虐的に語っていた。

 『被告人、AI』――中山七里著――を読んでいる。

 大好きなミステリー作家の新作である。おまけに、普段から大変お世話になっているAIが絡んでいる。読むしかない。その一手である。

 そこで、冒頭で述べた推理作家の「プロット」の話に戻る。やはり中山氏も、しっかりとした軸を事前に設け、この難題ともいうべき「AI」を対象にした犯罪事件を、結末へ向けて巧みに動かしている。

 

https://note.com/saekiworld/n/n2d48986fa3ed

 

 

先週の評点:
 

「バラバラな世界で共に生きる: リチャード・ローティの哲学 (NHK出版新書 760)」(◎):朱喜哲 (著)

 

元々は分析哲学を志していた氏が、途中から脱哲学に転じた経緯は衝撃的である。哲学を苦手にする私には助けとなる良書である。

 

『マスター・ビルダー 体は細胞が建設する』(◎)(角川書店)――アルフォンソ・マルティネス・アリアス著、佐々木紀子訳、吉森保監修

 

これも細胞に徹した良書である。遺伝子ではなく、細胞自体に設計能力が秘められているという談は説得力があり、生命の原点は細胞にありと思い知らされる良書である。

 

https://note.com/saekiworld/n/nf372d471a0b0

 

 

 

 

 

副題:十三年・百六十章 書評と思索の連続エッセー

著者:佐伯一郎

出版社:あや工房

はじめに

人は、何を頼りに生きているのだろうか。

知識なのか、経験なのか、それとも、言葉にしきれない感覚のようなものなのか。

日々の出来事に向き合いながら、私たちは知らず知らずのうちに、自分なりの「羅針盤」を手にしている。

しかし、その羅針盤は決して固定されたものではない。時代の変化とともに揺らぎ、身体の変化とともに歪み、ときに社会の雑音によって見失われることもある。

本稿に収めた諸篇は、そうした揺らぎの中で、あらためて世界を見つめ直そうとした記録である。理性による理解、老いへの洞察、社会への違和感、そして生と死に対する静かな思索。それぞれは断片でありながら、どこかで緩やかにつながっている。

確かな答えを提示するものではない。ただ、読み進めるうちに、ご自身の中にある「もう一つの羅針盤」に、ふと触れる瞬間があれば、それで十分である。

 

9.社会・文化への雑感

(軽やかな観察と批評)

始め
日常の中には、見過ごされがちな多くの示唆がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 同じ作家として、私は昨年、一度、我が身に問い掛けたことがある。
「文学は何の役に立つのか?」
 『文学は何の役に立つのか?』(コルク)――平野啓一郎著――を読んだときのことである。
 氏は、文学にはエンターテインメントだけではなく、社会へのコミットメントも必要だと語っている。その過程では、氏が敬愛する三島由紀夫も登場する。戦争への渇望を隠さなかった三島に対する反感も含めての発言なのだろう、と私は解釈している。
 一方、猫と戯れている作家たちの言葉を聞いていると、そこには別の価値観もあるように思えてくる。
 それは、「共感を得る」という文学の役割である。
 この辺まで来ると、文学というより、ポエムに近いのかもしれない。
 しかし、多くの人間が描こうとする小説を「エンターテインメント」か「社会へのコミットメント」かという二択で考えると、どうしても文学の役割を狭くしてしまう気がする。

 

https://note.com/saekiworld/n/n61b44034dfca

 

 

 

 

 

 さて、お約束の「猫好きな作家たちの本音トーク」である。

 とある作家は、文字にすることには慎重に構える、と語っていた。単純に現象を描写するのではなく、何気なく、さり気なく、繊細に言葉を紡いでいくのだという。人間には、言葉以外にも表情や声色、身振り、沈黙など、さまざまなコミュニケーション手段がある。しかし、文章という媒体では、その多くが削ぎ落とされる。だからこそ、言葉はより大切に扱わなければならないのだ、と。

 「慎重に構える」という感覚は、文章を書く技術以前に、他者に言葉を渡すときの倫理なのかもしれない。

 現象そのものは、目の前にある。

「雨が降った」
「妻が怒った」
「老人が歩いていた」
「猫が窓辺に座っていた」

 これだけなら、誰でも書ける。

 しかし作家は、その現象をそのまま説明するのではなく、読者の中に、その光景が立ち上がるように言葉を選ぶ。そこに「さり気なさ」が必要になるのだ。

 

https://note.com/saekiworld/n/nb17377e9f8de

 

 

 

 

高齢になるほど、お金や健康、人間関係など、不安は増えていきます。 しかし、多くの研究では、 現実よりも「未来への不安」で苦しむ時間の方が長い ことが分かっています。 だから心を整える技術が必要なのです。 皆さんは、一日に何回呼吸をしているか、ご存じでしょうか。 答えは、およそ2万回です。 私たちは、生まれてから最期の瞬間まで、一度も休まず呼吸を続けています。 しかし、その呼吸を意識する時間は、ほとんどありません。 実は、この「呼吸」こそが、心を整える最も身近な方法なのです。 人は緊張すると、自然と呼吸が浅く速くなります。 怒っている時も、不安な時も、慌てている時も同じです。 反対に、安心している時には、呼吸はゆっくりと深くなります。 つまり、 心が呼吸を変えるだけでなく、呼吸も心を変えるのです。 これがマインドフルネスで、まず呼吸に意識を向ける理由です。 呼吸は、自分でコントロールできる唯一の自律神経への入口だからです。 近年の研究では、ゆっくりした腹式呼吸を続けることで、副交感神経が優位になり、心拍数や血圧が落ち着き、ストレスホルモンであるコルチゾールも低下することが報告されています。 つまり、呼吸は薬ではありませんが、私たちの身体には、本来備わっている「自然の処方箋」なのです。 私自身、以前は仕事で焦ると、無意識に肩へ力が入り、呼吸が浅くなっていました。 会社経営、執筆、動画制作。 やることが増えるほど、「もっと急がなければ」と思ってしまいます。 しかし、ある時から、そんな自分に気付いたら、まず深呼吸を一回するようになりました。 たったそれだけです。 吸う。 少し止める。 ゆっくり吐く。 すると、頭の中で絡まっていた考えが、不思議とほどけていきます。 呼吸は、「今、この瞬間」に戻るためのスイッチなのです。 ここで、皆さんも一緒に試してみましょう。 鼻から四秒かけて息を吸います。 一、二、三、四。 二秒止めます。 そして、口から六秒かけてゆっくり吐きます。 一、二、三、四、五、六。 これを三回繰り返すだけでも、心は少し静かになってきます。 忙しい毎日の中で、「時間がない」と感じる方ほど、この三分間を大切にしてください。 三分は、人生を変えるには短すぎる時間かもしれません。 しかし、その三分を毎日積み重ねることは、十年後、二十年後の心のあり方を確実に変えていきます。 人生100年時代。 人生を整える第一歩は、大きな決意ではありません。 今日も静かに一度、深く呼吸をすること。 その小さな習慣が、心を穏やかにし、人生を豊かに育ててくれるのです。

 

 

 

 

 

 猫と犬、どちら派ですか――。そんな問いかけを、心理学や性格診断のような形で見かけることがある。確かに、猫と犬は対照的なペットである。最近の人気では、若干、猫の方が優勢らしい。内向き志向、コストパフォーマンスなど、理由はいろいろあるのだろう。とはいえ、どちらにも甲乙つけがたい魅力があることは確かだ。

 先に紹介した『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』――村上春樹・安西水丸――や、NHK Eテレの『猫メンタリー 猫の杓子も』に触発されて、今回は「猫と作家のつながり」のようなものを、少し考えてみたい。

 まず感じるのは、猫の遠慮のなさである。自己中心的、と言ってしまってもいい。

 私の場合、年がら年中、「100年人生」「老い」「生命科学」「共生社会」「文学」「SF」……と、かなり頭を使うテーマを大量に抱えている。

 そこへ、愛猫が一匹、入り込んでくる。

 すると、

 「先生、そんな難しいことはいいから、飯をくれ」

 となる。

 これは案外、悪くないのではないか。

 人間は、何事にも意味を求めすぎる。ところが猫は、そんなことを考えない。

 

https://note.com/saekiworld/n/nb12ecd0e3cce

 

 

 

 俄かハルキストによる、村上春樹探訪も、いよいよ終局である。

 『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』――村上春樹・安西水丸――を読んでいる。

 前稿で述べたように、氏のエッセー集としては、最終の6巻目に当たる。ここまで読み進めてくると、さすがに氏もエッセーに熟れてきたのだろうか。どの章も起承転結に富み、ぐっと読者を引き込む力を持っている。若い頃の棘が少し抜け、さらりとした中年のウィットが目立つ良作が多いことにも気付く。

 まあ、誰だって、尖ってばかりでは、世知辛い世間様を生きてゆけないものなのだろう。

 さて、これは村上春樹探訪記なので、新たに判明した氏の横顔を紹介する義務がある。

 もともと、氏がマラソン好きであることは知っていた。だが、100キロマラソンに出場するほどの体力と時間があったとは。さらに、一時的な脱毛に悩んだこと、日課として12キロほどのジョギングをすること、音楽を2時間聴くこと、ふらっと飲み屋へ出向き、一人で酒を飲むこと。そして、小説を書こうと決めたのは、29歳の4月の午後だったという。

 こうして並べてみると、作家という職業は、意外に肉体的でもあり、生活習慣にもこだわりがあるものだと分かる。

 

https://note.com/saekiworld/n/nee19d38557e9

 

 

 

 暫し、村上春樹嫌いの読者には誠に申し訳ないが、過去調査が続く。今回は、氏のエッセーの続編に挑戦してみる。

 『村上朝日堂』(新潮文庫)――村上春樹・安西水丸――を読んでいる。

 どうも、俄かハルキストの馬脚を露わしてしまったようだ。この作品は、前稿で紹介した『村上朝日堂 はいほー!』よりも以前の作品らしい。刊行は一九八七年。しかも、掲載先は「日刊アルバイトニュース」で、約二年間にわたって連載されたものだという。

 尤も、この雑誌の方の歴史が面白い。一九六七年に創刊され、一九八六年には「an」へと誌名が変更されている。そういう意味では、本文の村上氏のあとがきには、時系列的に少々気になるところがある。深読みすれば、「an」に誌名変更された際、当時すでに売れっ子作家として知られていた氏に、新たな連載の依頼があったのかもしれない。

 そんな初期のエッセーだからなのか、各篇は実に軽やかである。いや、もっと率直に言えば、かなり軽薄だ。若い作家が、気ままに好き勝手なことを喋っているような雰囲気なのである。

 

https://note.com/saekiworld/n/n758a22d75b54