生きていくために必要なこと
朝起きたら視界がこれでした。
とっさに携帯に手を伸ばし、撮影。
まばたきもせず、ジーっとさっきから私のことを見ています。
猫ってどうしてこんなに見るんでしょう。
イケメンかぶら。
見れば見るほど男前です。
撫でたらゴロゴロ喉を鳴らし、身をもたせかけてきました。
幸せです。
生きているといろんなことがあろうかと思いますが。
自分で自分を見捨てない、というのが生きていくための必要最低限の条件の気がします。
たとえどんなにはたからは幸せそうに見えたとしても、人の心の中なんて本人にしかわからない。
いや、もしかしたら本人にさえわからないのかも知れません。
期待をされて求められて、それにこたえているうちに、自分のほんとうの望みがなんなのかわからなくなってくる。
そういうときにふと良くない風が吹き、船でいうところの錨がないために飛ばされてしまう人をこれまで数多く見てきました。
生きていくためにはこの世に自分をつなぎとめておくための錨のようなものが必要です。
その錨は、なんだっていいんです。
太宰治が夏用の着物の生地をもらって「夏まで生きていよう」と思ったように、人はわりとささいなことで生への執着を取り戻します。
だからこんなクルマが欲しいとか、どこそこに住みたいとか、そういうゲスい望みって意外と助けてくれるので私は大いに肯定します。
もちろん、精神的なものなら大いに結構。
とはいえそんな高邁なものじゃなく、あの推しに会うまでは絶対に死ねないとか、なんでもいい。
(私はどっちかっていうとこっち派です)
B級映画を楽しむコツは「決して期待しないこと、そして望みを捨てないこと」だそうですが、人生もまたそれと似ているように私は思います。
あとやっぱり、忙しすぎるのは良くないです。
心を亡くすと書いて忙しいとはよく言ったもので、心が疲れてくると人は正常な判断ができなくなる。
そういうとき、ボンと肩を叩いて正気に返らせてくれる人がいるかどうか、が人の運命を分ける大事なポイントだと私は思っています。
だから私も村上春樹先生いうところの「魂の午前3時」に陥った時には誰かに肩を叩いて欲しいし、自分もそうなった人に気づいて肩を叩ける人間でありたいです。
人のありようには3種類あるとつねづね私は考えているのですが。
その3つとは「英語のI(私)」「人」そして「人間」です。
「I」はひとりでいるときの私。
文字通りの棒一本。
自分軸は人生の基本ですが、当然、これだけじゃ生きていけません。
「人」は「I」と「I」が支え合っている姿。
「I」と比べて幸福感めっちゃあがりますが、やはりこれだけでも足りません。
なぜなら偕老同穴といえば聞こえはいいけど、世間と隔絶して2人だけで暮らしていると、だんだん甕の中で飼われているスズムシみたいに弱っていくからです。
そして最後の「人間」。
これは読んで字の如く、「人の間」って書きます。
これは多様性があって面白い反面、この中ばかりに暮らしていると「個」を見失ってバランスを失う危険があります。
そうなったらもとも子もないですが、やはり生きていくためには必要。
ようはアルファベットでたとえると、
「I」はA 、「人」はA とB 、「人間」はA 〜Zっていうことになるのですが。
なにが言いたいかといいますと、この3つはどれもひとにとって必要な状態だということです。
自分を見つめる。
相手とふれあう。
不特定多数の中で生きる。
幸せな人というのはこの3つを上手に往還している気がするのです。
だから私もこい願わくば...なんてことをついつらつらと考えてしまった火曜日の朝。
今日はこれから面談です。