首里城の続きです。
『正殿・御庭(うなー)・浮道』
奉神門を潜ると、御庭・浮道が広がり、その先には正殿が鎮座しています。
「正殿」
琉球王国最大の木造建築物で国殿または百浦添御殿(「ももうらそえうどぅん)とよばれ、文字通り全国百の浦々を支配する象徴として最も重要な建物だったそうです。
また日本と中国の様式を取り入れた和漢折衷に、琉球独自の様式が見られる特徴的な建物となっているそうです。
「御庭」
年間を通じて様々な儀式が行われた広場であり、色違いの列は、儀式の際に諸官が位の順に立ち並ぶ目印の役割をもっていたそうです。
「浮道」
中央の浮道は国王など限られた人だけが通る事を許されていたとの事です。
正殿中央、屋根下に見られる飾りは『空破風妻飾(からはふつまかざり)』、中央の柱は『向拝柱(こうはいばしら)』、無地の柱の横に見えるのは『大龍柱』と言われているとの事です。
「空破風妻飾」
弓のようにそり曲がった曲線状の装飾で、その妻壁の中央に火焔宝珠(火焔ほうじゅ)、周囲を大股(だいかえるまた)、両脇に金龍と瑞雲の彫刻が施されているとの事。唐破風は日本の神社建築にも見られるそうです。
「向拝(」
瑞雲とともに金龍が柱を巻きながら登る姿が鮮やかに描かれています。彩色は色調・文様など中国の影響を大きく受けているそうです。
「大龍柱」。
龍は国王の象徴であり、守り神だったそうです。左右対の大龍柱の龍は、阿・吽の口の形で、胴体が垂直に伸びており、龍の彫刻の形態としては東アジアの中で琉球独自のものだそうです。
御庭周囲には北殿(評定所と呼ばれる重要案件を話し合った政府の中核機関だったそうです。また冊封使(さっぽうし・・・新国王が誕生すrと、中国から冊封使と呼ばれる工程の使節が来流し、その就任を認める儀式が執り行われたそうです。)を接待した場所でもあったそうです)、南殿(薩摩の使者の接待や首里城の年中行事などが行われる場所だったそうです)・番所があり、南殿・番所奥には様々な部屋が広がっています。
南殿・番所から奥の部屋、そして正殿内部に入る事が、様々な展示が見る事が出来ます。
(北殿は現在、休憩所やお土産コーナーなどがあり、入る事が出来ます。)
折角来たので、首里城内部に入って来ました。
番所を入った直ぐの所に、儀式の様子を再現した模型が展示されています。
この先は一部以外、撮影禁止となっているので、写真はほぼありません。
撮影禁止内の場所に、世界遺産となっている『遺構』があります。
「遺構」
17世紀以前に建てられた遺構は、2000年12月に琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録されました。
正殿1階から、歴史ある遺構を見ることができます。
『御佐床(うさすか)』
ここは撮影OKとなっていたので撮影してきました。
正殿2階にあるこの部屋は、国王の玉座として様々な儀式や祝宴が行われた所だそうです。
お寺によく見かける仏像を置く台(須弥壇(しゅみだん))によく似ているとの事です。
天井も高くしており格式を付けているそうです。
御佐床の正面には御庭に面した小部屋があり、正月の儀式の時など、国王が御轎椅(うちゅーい)(椅子)に座り御庭に並ぶ諸官の謁見を受けたそうです。
尚、国王の椅子については、1477年~1526年まで在位した、尚信王の御後絵(肖像画)をもとに再現したものだそうです。
正殿の裏側。
首里城内を見学し、正殿裏へ出た所に、少し小さめな広場がありました。ここは「後之御庭」というそうです。
ここの空間は、国王やその家族の生活空間であり、国王および家族園以外は男子禁制だったそうです。ここは王妃を頂点に、7女性が全てをとり仕切る「奥」の世界だったそうです。
いわゆる、江戸城でいう大奥の様な空間だったのでしょうか?
後之御庭を囲むように、いくつかの建物があります。(写真はその一部です。)
『世誇殿(よそえでん)』
御内原を管轄する建物で王夫人の住居でもあったそうです。
『女官居室』
御内原で務める女官たちの居室だったそうです。
後之御庭の脇には東のアザナ(展望台)があるとの事で行ってみました。
後之御庭と東のアザナの間の空間には・・・。
『井戸状貯水遺構』
『湯屋』
『白銀門』
「寝廟殿」に通じる正門で、国王だけが出入りすることが出来たそうです。別名「しろはね御門」と言われているそうです。
『寝廟殿(しんびょうでん)』
国王が亡くなった際、その亡きがらを一時、安置した場所といわれているそうです。
などがあります。
寝廟殿脇には階段があり、東のアザナへ上って行く階段があります。
東のアザナから見た街の様子。
こちらは東のアザナから見た首里城。
この後、北殿で休憩をしたり、お土産コーナーで買い物をして散策を終えました。
とても広大な敷地でしたので、私達が散策したのはこれでも一部。
また、改めてまたゆっくりと散策出来たらと思いました。