10月18日に行って来た「首里城」の散策の様子についてです。
写真が多いので、エントリーに2回に分けたいと思います。
首里城に着いたのは11時頃。
少し離れた所の駐車場に車を停めて、首里城前交差点を渡りつつ、歩いて首里城まで行きました。
首里城公園の総合案内図。
案内図を見るだけで、広大な広さだという事を感じる事ができます。
『首里城』
琉球王国の政治、外交、文化の中心地として威容を誇った首里城。
1945年の沖縄戦で灰燼に帰した首里城は、1992年に沖縄の本土復帰20周年を記念して国営公園として復元されたそうです。
また、中国と日本の築城文化を融合した独特の建築様式や石組み技術には高い文化的・歴史的な価値があるとされ、首里城跡は2000年12月に、日本で11番目の世界遺産として登録されました。
鮮やかな朱色に彩られたその姿は、王国の歴史、文化の息吹を伝える雄姿であり、沖縄のシンボルと呼ばれているとの事です。
首里城は沖縄の歴史・文化を象徴する城であり、首里城の歴史は琉球王国の歴史そのものとされているそうです。
小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、その中に多くの施設が建てられています。いくつもの広場を持ち、また信仰上の聖地も存在。これらの特徴は、首里城に限られたものではなく、グスクと呼ばれる沖縄の城に共通する特徴であるそうです。
他のグスクは首里城との競争に敗れ滅んでしまったが、首里城はグスクの特徴を保持しながら新たな発展を遂げたとの事です。
首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成したといわれているそうです。
正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西を正面としているとの事。西を正面とする点は首里城の持つ特徴の一つとされています。
中国や日本との長い交流の歴史があったため、首里城は随所に中国や日本の建築文化の影響を受けているとの事。正殿や南殿、北殿はその代表的な例とされているそうです。
首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもあったといわれているそうです。
また、各地に配置された神女(しんじょ)たちを通じて、王国祭祀(さいし)を運営する宗教上のネットワークの拠点でもあったとの事。
さらに、首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍。首里城は文化芸術の中心でもあったといわれているそうです。
1879年(明治12年)春、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われたとの事。
1930年代には大規模な修理が行われたが、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼。
戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなったが、大学移転後に復元事業が推進され現在に及んでいるとの事。
復元された首里城は、18世紀以降をモデルとしているそうです。
2000年12月には、首里城跡が世界遺産に登録されたそうです。
世界遺産登録には、同時にいくつかのグスクも登録されたのですが、首里城跡はグスクの中でもひときわ目立っているそうです。
尚巴志が琉球を統一した頃には、すでに歴史の表舞台に登場していたといわれているそうです。
その後、450年近くの王国の政治、外交、文化の中心地となったそうです。
首里城正殿は、沖縄最大の木造建築物ということだけではなく、日本と中国の建築様式を見事に取り入れた当時の人々の知恵と、沖縄文化の独自性をもっともよく表わしているとの事です。
~琉球王国とは~
今から約570年前(1429年)に成立し、約120年前(1879年)までの間、約450年間にわたり、日本の南西諸島に存在した王制の国のことを示しているそうです。
琉球諸島には、先史時代を経て、日本の鎌倉時代に当たる12世紀頃から一定の政治的勢力が現れはじめ、各地に「按司(あじ)」とよばれる豪族が現れ、彼らが互いに抗争と和解を繰り返しながら次第に整理・淘汰されたそうです。
やがて、1429年尚巴志(しょうはし)が主要な按司を統括し、はじめて統一権力を確立。これが尚家(しょうけ)を頂点とする琉球王国の始まりといわれているそうです。
その後、琉球では独自の国家的な一体化が進み、中国をはじめ日本、朝鮮、東南アジア諸国との外交・貿易を通して海洋王国へと発展してきた。首里城はその海洋王国の政治・経済・文化の中心であった。
琉球王国の歴史の中では、一度だけ大きな政権交代があったとの事。
統一王朝が成立してから約40年後の1469年、伊是名島(いぜなじま)の農夫出身の金丸(かなまる)がクーデターにより政権を奪取し新王朝を開いたそうです。
金丸は前例に従い、また中国皇帝との関係にも配慮して尚王家を継承し、尚円王(しょうえんおう)と名乗ったとの事。
このため、琉球王国の歴史では、この政権交代以前の王朝を「第一尚氏王統」、それ以後を「第二尚氏王統」と呼んでいるそうです。
この第二尚氏王統は、初代国王尚円(しょうえん)から数えて19代目の国王の尚泰(しょうたい)時代まで(約400年)続いた。
その間、1609年に日本の薩摩藩が3000名の軍勢をもって琉球に侵攻し首里城を占拠。
それ以後270年間にわたり琉球王国の表向きは中国の支配下にありながら、内実は薩摩と徳川幕府の従属国であるという微妙な国際関係の中で存続していたそうです。
しかし、やがて日本の明治維新により成立した日本政府は、1879年年(明治12年)軍隊を派遣し首里城から国王尚泰(しょうたい)を追放し沖縄県の設置を宣言。ここにおいて、琉球王国は滅亡したそうです。
(参照:首里城公園公式HPより)
『守礼門』
尚清王時代(1527年~1555年)に創建。扁額の「守禮之那」とは、「琉球は礼節を重んずる国である。」という意味だそうです。
ここで、民族衣装に着替えて記念写真を撮れるという事で、折角来たので着替えて撮影をしました。
守礼門を潜ると、長い道が伸びています。
『園比屋武御嶽石門(そのびゃんうたきいしもん)』
国王が出御の時、道中の安泰をこの石門前で祈願したそうです。
世界遺産となっています。
守礼門から5分程歩いた所に門が。
『歓会門(かんかいもん)』
首里城の正門との事です。中国皇帝の使者”冊封使(さっぽうし)”など、訪れる人への歓迎の意を込めて名前がつけられたそうです。
『瑞泉門(ずいせんもん)』
歓会門を潜ると、瑞泉門が見えてきます。
瑞泉とは、”立派なめでたい泉”という意味だそうです。門の手前にある「龍樋(りゅうひ)」にちなんで名付けられたそうです。
「龍樋」・・・龍の口から湧水が湧き出していることから、その名が付けられたそうです。王宮の大切な飲料水だったそうです。
『漏刻門』
瑞泉門を潜り階段を上っていくと、「漏刻門」が見えてきます。
櫓の中の水時計で時刻を計ったことで名付けられた門だそうです。別名「かご居(い)せ御門(うじょう」と呼ばれているそうです。
身分の高い役人も国王に敬意を表して、ここで籠を降りた場所となっていたとの事です。
漏刻門を潜り階段を上っていくと、少し平らな広場が見えてきます。
その広場には内には、「日影台」『万国津梁の鐘と共屋』があります。
『日影台(にちえいだい)』
1739年、従来の漏刻(水時計)が不完全であるとして設置され、この時間制度は1879年の廃藩置県まで続いていたそうです。
『万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)と共屋(ともや)』
1458年に正殿にかけられていた鐘の復刻盤との事です。鐘には「琉球国は南海の美しい国であり、朝鮮、中国、日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易に「よって栄える国である。」という主旨の銘文が刻まれているそうです。
(現資料は沖縄県立博物館・美術館にて所蔵されているとの事です。)
広場の脇からみた「久慶門」。
地図によると、この門の正面は私達が通ってきたルートとは別ルートで見る事が出来るようです。
久慶門は通用門として使用されていたそうです。
ここにも首里城の案内板がありました。
『廣(広)福門(こうふくもん)』
東側には戸籍の管理をする「大与座(おおくみざ)」、西側には寺や神社を管理する「寺社座(じしゃざ)」があったそうです。
廣福門を潜ると、「下之御庭(しちゅぬうなー)と呼ばれる広場に出ます。
下之御庭には「系図座・用物座」「首里森御嶽」があります。
『系図座・用物座(けいずざ・ようもつざ)』
「系図座」は、士族の家系図を管理していた役所。「用物座」は、城内で使用する物品、資料などを管理していた役所だったそうです。
『首里森御嶽(すいむいうたき)』
城内にある礼拝所のひとつで、琉球最古の歌謡集「おもろさうし(おもろそうし)」に数多く詠まれているそうです。
神話には「神が作られた聖地である」と記されているそうです。
写真が上手く撮れていなかったので、載せる事が出来ず申し訳ありません・・・。m(_ _)m
『奉神門(ほうしんもん)』
「御庭(うなー)へ続く最後の門との事です。3つの入口があり、中央の門は国王や身分の高い人だけが通れる門だったそうです。
現在、毎朝8:25~8:45に、開門を告げる朝の儀式「御開門式(うけーじょー)」を見る事が出来るそうです。
(休場日、荒天時は中止されるとの事です。)
奉神門前にある天水甕。復元されたものだそうです。
奉神門先からは有料となります。
私達はこの先も散策しに行きました。
大分、長いエントリーとなってしまったので、ここで一旦切りたいと思います。
(写真の説明の参照:首里城公園パンフレットより)