中城城 | ~日常ブログ~

~日常ブログ~

りえの日常を徒然なるままに書いたブログです。


読書登録お待ちしております!

10月16日に行った「中城城(なかぐすくじょう)」の散策の様子です。

 

駐車場脇にある案内板。

 

中城城の入口には案内板が設置されています。

 

こちらも入口にあるのですが、ハート型、とても可愛いです(^^)

 

入口から中城城敷地入口までは少し距離があり、勿論、歩いてでも行けるのですが、坂を上がって行かなければならず少し大変と、係の方がおっしゃっており、無料で敷地の入口までカートで送ってくれるとの事でしたので、お願いをしてカートで敷地入口まで行きました。

カートで着いた先には広大な広場が広がっていました。

 

広場から見た街と海の様子。

 

『カンジャーガマ』(鍛冶屋跡)

鍛冶を行っていた所といわれているそうですが、白のためか集落のためか定かではないそうです。

一説によれば護佐丸が阿麻和利に備えるために、武器を造っていたとも云われているそうです。

(参照:中城城跡パンフレットより)

広大な敷地が広がっている一角にあります。

 

 

世界遺産を示す石碑。至る所に設置してあります。

 

広大な敷地脇。ここから中城城の敷地へ入っていきます。

 

『中城城』

 かつて、貿易が行われていた屋宜(やぎ)の港から2Kmどほ離れた標高約160mの丘陵上にあります。

中城村の西北から北中城村の南側にのびていく丘陵の東崖縁を天然の要害とし、300余もあるとされる沖縄のグスク(城)の中で最も遺構がよく残っていることで知られているそうです。

石垣の上に立つと、西に東シナ海、東に中城湾(太平洋)を望み、勝連半島、知念半島、さらには周囲の海上の島々まで見渡せる眺望のすばらしい所との事。

  城は、連郭子規の山城で、六つの郭(くるわ)で構成されているとの事、城壁は、主に琉球石灰岩の切石で積まれており、自然の岩石と地形的条件を活かした美しい曲線で構成されているそうです。この築城技術の高さは、芸術的と言われ、歴史的にも高い評価を受けているとの事です。

(1853年、来島したペリー提督探検隊一行が現地調査を行い、『要塞(ようさい)の資材は、石灰岩であり、その石造建築は、賞讃すべきものであった。医師は・・・非常に注意深く刻まれてつなぎ合わされているので、漆喰もセメントも何も用いていないが、この工事の耐久性を失うようにも思えなかった。』と記し、中城城跡のすばらしさを讃えたといわれているそうです。)

 中城城跡は、14世紀後半迄先中城按司(さちなかぐすくあじ)が数世代にわたり、西の郭、南の郭、一の郭、二の郭の主要な部分を築き上げ、1440年に読谷の座喜味グスクから移ってきた護佐丸(ごさまる)によって、北の郭、三の郭が増築され、現在見られるグスクの形が完成したようです。

 護佐丸滅亡後は、一の郭内に間切番所や中城村役場が置かれ、1945年4月上旬に戦争によりその施設が焼失するまで中城村の行政の中心となっていたそうです。戦後は県下初の公園として動物園や遊園地等が設置され、県民の憩いの場として利用されたそうです。

 1972年5月15日(日本復帰の日)に、国の史跡に指定。指定面積は100,473㎡(約33,400坪)で、その内14,473㎡(約4,300坪)が城郭の面積だそうです。

また、2000年12月2日には、「琉球王国のグスク及び関連遺跡群」の1つとして世界資産にも登録され、更に、2006年4月6日には、「日本100名城」にも選ばれたとの事です。

 

※護佐丸

護佐丸は山田グスクで生まれ、読谷山按司を継ぎ、第一尚氏王統時代の英雄として知られる尚巴志とともに、三山統一を成し遂げたとの事。(「按司」とは地方の領主・支配者のことだそうです。)

その功績が認められ、読谷山の地を与えられた彼は座喜味にグスクを築いて移り、琉球統一事業に尽力。

しかし、その頃勢力を伸ばしてきた勝連城主の阿麻和利を牽制するため、王の命によりほどなく中城グスクに移され中城按司となったそうです。そして1458年、第一尚氏王統第6代王・尚泰久の時に阿麻和利に滅ぼされてしまったとの事。

伝承では、天下を狙う阿麻和利が、首里と勝連の間に立ちふさがる中城按司・護佐丸を除くため、護佐丸が謀反を企んでいると尚泰久王に讒言(ざんげん)をし、王はこの報告を信じて、阿麻和利に護佐丸討伐を命じたそうです。護佐丸は首里王府軍の旗を掲げて攻めてきた阿麻和利軍を見て謀りごとと見抜きつつも、王への忠誠心から「王府軍には逆らえぬ」と、幼児だった三男を乳母に託して落ちのびさせ、妻子もろとも自害。その後、阿麻和利も讒言がばれて王府軍によって滅ぼされたと伝えられているそうです。

この出来事は「護佐丸・阿麻和利の乱」と呼ばれ、沖縄独特の芸能である「組踊」などの題材にもなっているとの事。もっとも、「忠臣・護佐丸、逆賊・阿麻和利」という構図は首里王府の見方で、阿麻和利こそ農民たちの英雄だったとする説もあり、琉球史最大の謎に包まれた事件といわれているそうです。

(参照:中城城跡パンフレット、公式HPより)

 

 

『正門』

西の方角へ向けてたてられた正門(櫓門)。門をはさむように両側に石垣がせりだし、ハンタ道(公道)に向けいて狭間がつくられているとの事。

 

 

『日本軍壕跡』

 正門の脇に、城壁の石材が欠けている穴があります。この穴は、1945年4月上旬に日本軍によって空けられたもそだそうです。

かつて、日本軍の兵士として中城城跡に駐在していたという方の証言によると、城壁の奥に業を掘ろうとして城壁の株を爆薬で破壊したが、作業途中で上層部から直ちに南に移動するようにというん命令があり、作業を中断したという事。

 ある書物によると、1945年、米軍が読谷と北谷の海岸に上陸。

4月2日、独立歩兵第12大隊に所属する第3中隊・機関銃中隊・歩兵砲中隊が中城城跡に移動してきたそうです。

4月3日、中城村の東海岸を南下中の米軍第7師団第32連隊を、この日本軍が攻撃し、同日の夜には中城城跡周辺にいた日本軍部隊は新垣に移動していったとの事。

このように日のん軍の滞在期間が短く、大規模な戦闘が行われる前に移動したことにより、中城城跡は米軍の攻撃を殆ど受けることもなく、昔ながらの姿を保つことが出来たそうです。

(参照:案内板より)

 

正門を入って行くと階段が。

 

階段を上った先には再び石垣と階段が。

 

 

 

『南の郭』

様々な拝礼所が点在しています。

 

更に上っていくと・・・。

 

門が見えてきます。

 

 

 

『一の郭』

門を潜り抜けると、一の郭に出ます。

 

一の郭にも拝礼所があります。

それぞれ祀られている神が違うようです。

 

 

少し高い所から見た一の郭。

 

こちらは高い所から見た二の郭。

 

二の郭に行くにはこの門を通っていきます。

 

通ってきた門の裏側。

 

『二の郭』

 

二の郭にも拝礼所があります。

 

二の郭の脇に階段があり上ることが出来ます。

太平洋が一望できるとの事で行ってみました。

 

潮風がとても気持ち良かったです。

階段を上った先には細い道が通じていたのですが、高所恐怖症の私にとってはそこを歩くのは恐怖を感じたので、直ぐに下りてしまいまいsた(^^;A

 

二の郭内にある石碑。

旦那は先程の階段を上り、細い道を進んでいました。

あの先の光景はどんなだったのでしょうか・・・。

 

二の郭から下りていくと・・・。

 

『西の郭』

(立ち入り禁止となっていました。)

 

 

『北の郭』

護佐丸が井戸をとり込み増築したとされているそうです。

(参照:中城城跡パンフレットより)

 

『大井戸』

北の郭にある大井戸。

城郭内に水を確保していることが、この城の特徴との事です。

西の郭(立ち入り禁止になっており入れなかったのですが)には、夫婦井戸(ミートゥガー)と呼ばれる二つの井戸があるそうです。

(参照:中城城跡パンフレットより)

 

などの遺跡が見られます。

 

北の郭から三の郭には階段があり上る事ができます。

 

『三の郭』

一~三の郭の中では、一番小さな郭となっていました。

 

『裏門』

東に向かって建てられているとの事。

ぺりー探検隊一行がエジプト式と評した精巧なアーチだそうです。

(参照:中城城跡パンフレットより)

 

裏門を抜けると、記念運動場が広がっています。

そこから見た、三の郭。

三の郭は新城(ミーグスク)とも呼ばれ、石積に技法の最も進んだあいかた積み(亀甲乱れ積み)によって築かれているそうです。

(参照:中城城跡パンフレット)

 

中城城跡を散策していて、石の積み方が場所によって違う事に気付いたのですが、それもその筈、三種類の石積みがあり、「野面(のずら)積み」(南の郭)、「布積み」(一の郭城壁)、「あいかた積み(亀甲乱れ積み)」(三の郭)があるそうです。

(参照:中城城跡パンフレット)

 

石積みだけでも時代を感じる事が出来る中城城でした。