山車を見て歩いた最後に、「豊受大明神」へ参拝に行きました。
通りから少し奥ばった所に神社があります。


参道などに並ぶ提灯はいつもあるのかは定かでないです。

鳥居と狛犬。
豊受大神宮は、古町下町に鎮座し、祭神は豊受姫大神を斎き祀る。
勧請年代は未詳であるが、社伝によると、人皇五十四代仁明天皇の承和元年(西暦834)八月、皇女久子内親王を伊勢の神宮の斎宮に立てさせられ、依田の庄は、この宮様の院領となったことが歴史に現れているとの事。
その当時、伊勢国度会郡山田の外宮より、この有坂(長窪)の五十鈴ヶ原に御分霊を鎮め奉ったとされているそうです。
勧請年代は未詳であるが、社伝によると、人皇五十四代仁明天皇の承和元年(西暦834)八月、皇女久子内親王を伊勢の神宮の斎宮に立てさせられ、依田の庄は、この宮様の院領となったことが歴史に現れているとの事。
その当時、伊勢国度会郡山田の外宮より、この有坂(長窪)の五十鈴ヶ原に御分霊を鎮め奉ったとされているそうです。
後の仁治二年(西暦1241)、海野小太郎幸恒が当社を尊敬して遷宮式をはじめ、二十年ごとに本殿、上屋、瑞垣、鳥居、注連掛木、旅館(おたびや)のすべてを新しく建てかえて、遷宮式が行われてきたとの事。
この遷宮式は、伊勢の皇大神宮に準じて、神無月八日に行うを例としてきたそうです。
その後、旅館はそのつど建てかえられなくなったが、遷宮式に要する浄財は広く小県、佐久、諏訪、埴科、水内の崇敬者からの寄進によったのであるが、後になってだんだんその地域が縮めれられたとの事。
それは、「たや制度」が各地に設立、普及されたため、御神符(万度御祓)の頒布区域が狭められたことによる時代の変遷といわれているそうです。
従来、この遷宮祭は、名主がその長を勤めて役員多数を選び斎行されてきたとの事。
本社を隔てる1km西方に伊勢山があり伊勢沢があり、奉斎当時なんらかの関係に置かれたと考えられているそうです。
(参照;豊受大明神公式フェイスブックより)
この日は次々と参拝者が見えていて賑わっていました。
普段は静かな所なのかな?
今度はお祭りでない日にゆっくりと参拝してみたいと思います。