平成29年2月12日(暫く、エントリーの日と行った日がズレますが、ご了解下さいませ...m(_ _;)m)、上田城跡公園へ。
上田城は、真田昌幸が築城した城です。
はじめは徳川家康に、上杉景勝軍をとめる為に築城していましたが、家康の言動により激怒した昌幸が、上杉景勝軍と手をとった事で、真田軍と徳川軍の戦いの場所となった城です。(上田合戦の場。)
真田軍が2度の上田合戦に勝った事から『不洛城』とも呼ばれています。
しかし、関ヶ原の戦い後、徳川方に渡ってしまいますが、のちに真田信之に引き継がれますが、信之が松代へ移った後は、仙石氏、松平氏に引き継がれた城です。
当日は城跡公園下の駐車場に車を停めました。
駐車場近くの遊歩道から見た『南櫓』。
現存している三つの櫓の一つです。
南櫓から少し東へ歩いていくと、『尼ヶ淵(あまがふち)』と呼ばれている所があります。
当時、城の南側(写真の撮影方向)には、千曲川が流れており、天然の堀となっていたそうです。
この場所を「尼ヶ淵」と言われた事から、上田城を「尼ヶ淵城」と呼ばれていた説もあるそうです。
この石垣をよく見ると...
石垣の一部に四角くくりぬいてある部分が。用途は判明されていませんが、水を抜くようの穴という説が...。
『尼ヶ淵』から東へ行くと...。
遊歩道を正門入り口に向け歩いて行きます。
ここは二の丸堀跡とされており、一時期、電車が通っていた時代もあったそうです。
説明書きの真向かいになっている部分(現在は遊歩道と大通りを繋ぐ階段の一部になっています。)、プラットホームの跡なんだそうです。知らなかったぁ...。
真っ正面に写るのは『二の丸橋』。
写真、左端に見える顔みたいなもの。
(見にくくてすみません...。)
顔のように見えますが、「2のマルハシ(二の丸橋)」と読むそうです。
これも知りませんでした。
『平和の鐘』
城下町の人々に時を知らせる「時鐘」として活躍されたそうです。
途中から工事をしていて、先には進めません。
工事をしているすぐ先には、米蔵の説明書きが。現在、上田市立博物館がある位置に米蔵があったそうです。
遊歩道から大通りへ階段を登り、南へ少し行くと...
(別エントリーへ続く)