事件の当日、十二月十日、店の雇われ店長である早乙女が、店がひけたあと、私に言ってきました。
「唯さん、オーナーの家に寄っていってくださいよ。明後日からオーナー、香港に行っちゃうんですよ」
「それ、私は何も聞いていないけど。じゃあ、他の女と行くつもりなのかな」
「いや。一人だと思いますよ」
「どのくらい、行っているの」
「さあ。判りませんけど。ただオーナー、店の権利書とかを自分に全部預けてくれたんですよ。これからは、この店は、お前が大きくしていけばいいからって」
「それじゃあ、まるで高飛びするみたいじゃないの」
厭な予感が、しました。小山田はここ一年くらいのあいだ、金策に苦労していて、負債もかなり膨らんでいることを、私は知っていました。しかし都の条例により、無許可の風俗店が何度も摘発され、都内から次々と風俗の店が潰れていく。私の勤めているSMクラブも、客足が急速に遠のいていました。
「本当なの。本当に、香港なの」と訊くと、早乙女は急にとぼけはじめました。
「さあ。いや、バンコクだったかな、香港経由で」
喋りながら、その細い眼が私の動揺を確かめるように動くのを、私は認めました。どうやら早乙女は、小山田の行先を、本当は知っているようでした。知っていながら、とぼけているのです。早乙女は十八歳のときに、定職にも就かずぶらぶらしていたのを小山田に拾われたという男でした。お抱えの運転手からはじめて、二十四歳でこのSMクラブの店長を、任されるまでになったのでした。小山田の言うことなら、何でも聞くという男でした。
不思議でした。一人で高飛びをするつもりなら、どうして小山田は私に、自分のマンションに寄れと言うのでしょう。事件の二週間くらい前から、私は小山田との接触を完全に絶っていました。何か非常に危険なことに、巻き込まれてしまいそうだという予感があったからでした。
強引に帰ってしまおうとすると、早乙女は事務所の玄関に立ち塞がって、
「いいんですか。明日から、ここで働けなくなりますよ」
はっきりと脅す口調で、そう言われました。私が小山田の愛人であること、そして店の中でも指名の多い嬢であるために、それまで早乙女は、私に対し、どこか腫れ物に触るような接し方をしていました。しかしこのときは、普段からの距離感をあっさりと崩して、いきなり私のなかに踏み込んできたのです。
私は、衝撃を受けていました。自分と店、そして小山田との均衡関係が、自分の知らないうちに毀れてしまったような感じでした。この二週間、小山田との関係を頑なに遠ざけていたのは紛れもなく自分でしたが、こうして露骨に、早乙女が、
「役に立たないのなら、用はない」という態度に出てくるとは、思いませんでした。何か言いようのない、黝々とした悲しみが胸の中に拡がっていきました。
車の後部座席でも、私はずっと黙り込んで、メールを打ち続けていました。早乙女は執拗に話しかけてくるのですが、私は無視し続けていました。
もともと、私は早乙女のことを嫌っており、何かあるたびに言い争いになってしまいます。早乙女が、陰で私のことを「問題児」と呼んでいることも、私は知っていました。私も早乙女に、「あんたなんか、生理的に嫌いなんだから」と面と向かって、何度も言っていました。
色の白い、太った男で、坊主頭にしていました。その外見が、いっそう私に生理的な嫌悪を感じさせていたというのも、事実でした。私は太った男が、苦手でした。そのうち早乙女は、
「唯さん、メール打つの、止めてくれませんかね」
抑揚のない声で、そう言ってきました。
やはり私は無視して、ひたすら携帯電話に、文字を打ち込み続けていました。運転しながら、フロント・ミラー越しに、早乙女はこちらを、暗い眼つきでちらちらと見ていました。まるで猫のような眼だと、私は思いました。庭先で何か動くものを見つけると、眼を細めて対象に見入っている猫。
静かな車内で、早乙女が大袈裟に、舌打ちする音が聞こえました。それから、車のインパネの部分を、激しく何度も拳で叩きました。それから突然、路肩の部分に車を駐車させました。
「止めろっていってるんだろうが。顔、滅茶苦茶にされてえのかよ」
顔全体を鬱屈させ、金壷眼を、こちらに向けて叫びました。
私は出来るだけ無表情を装って、「小山田とあんたに、殺されるかもしれないって、ゆかりと恭子に、メールを打ってたのよ」と答えました。
早乙女はしばらく、憤怒で顔を顫わせていました。だが、やがて深い溜息をつき、再び車を走らせ始めたのです。
「異常、ですね」
私の話を聞き終えた有吉は、そう言いました。
「何が異常なの。私はその時は、そう思っていなかったわ」
「そんな環境の中で、働かなければならないということがですよ。怖くはなかったの」
「小山田と知り合ってから、私の生活はすごく、急激に変化してしまったの。いつの間にか私は、自分の生活を『均(なら)して見る』ことに、慣れきってしまったんだと思うわ。自分のなかでは、生きていることも死んでいることも、ほとんど落差がない――そういう心境に、なっていったのよ」
「なかば、自暴自棄になっていったということですか」
「そうです。死ぬっていうことは、別に怖くはないけれど、いや、やっぱり怖いと思うんだけど、執着はなかったの。ただ何か、『痕跡』っていうのかしら、足跡みたいのを残しておきたいという、気持ちはあったわ。だからメールを打って、自分がどこにいるのかを誰かに知らせておきたかったんだと思うの。磨かれた石の表面を滑っていくみたいに、瞑い穴、――死という穴のなかにすっぽりと落とされてしまうのは、厭だったの」
「均して見るといういい方そのものは、面白いがね。どうもあなたが、あまりに感情を誇張して喋るので」有吉は苛々したように、身を乗り出し、気色ばんだ声を出しました。
「そのとめどない奔流にのまれないようにね、こちらも抑制を自分に強いなければならないんです。だがね、そのために事実関係の確認が、ほとんど進まないんだ。大事なことを隠してもらっていては困る。私はね、国選弁護士として今回の事件を担当したときに、直感的に真相に対する不審を感じたんだ。言っている意味が判りますか。あなたが小山田をかばっているんじゃないかということだ」
有吉は靴をすり減らして歩き回って調べても、裁判に負ければパーなんだ、という意味もこともいいました。拘置所では、弁護士との面会に、看守が立ち会うことはありません。他に面会者もなく、私が感情を正直にぶつけることができるのは、皮肉なことに有吉しかいないのでした。現実と私とを繋ぐ、たった一つの紐帯は、この冷淡な男というわけでした。