「私に、何をさせようっていうの」

「俺を助けて欲しいんだ、お前しか、頼める相手がいない」

 小山田は嗄れた声を出して、哀願してきました。



「何もできないし、するつもりもないわ」

「お前は、俺のことを拒否する姿勢しか見せようとしない、ここのところずっとそうだ」

縋るような、請うような瞳が、私を見詰めていました。「俺は始めたんだ。だから、けりをつけなければならない。お前に、手伝ってもらわなくちゃならない」

「一人で始めたのだから、一人でけりをつければいいわ」

「お前も和江みたいに、透明になりたいのか」

「そういうわけじゃ……」あまりの小山田の無邪気な言い方に狼狽して、私は言葉を濁しました。小山田は相手を消すときに、「透明にする」という形容をするのです。殺された和江を見るまで単なる威嚇の意味で、その言葉を使っているのだと思っていました。

「結局、これは取り引きなのね」

「いつだって取り引きだったじゃないか。俺のお前のやりとりのなかで、取り引きじゃなかったことはないじゃないか」

「あなたは、そう思いたいのね。そう思ったほうが、安心できるからね」

「何に対して安心するんだよ。俺は女房を、殺しているんだよ」小山田は顔をそむけるようにして、腕時計に眼を落としました。


「そろそろ行かなくちゃな……唯、お前、『一事不再理』っていう言葉、知ってるか」

「何。イチジフサイリって」

「裁判の用語だ。いったん判決が確定した事件については、検察官が起訴しても免訴になる。つまり検察官が、再び公訴できないっていう法律なんだ」

 小山田は早乙女に向かって、顎をしゃくりあげました。すると早乙女が部屋を出ていき、しばらくすると盆の上に、グラスを二つとシェリー酒を持って戻ってきました。

「飲め。俺も飲むから」

「飲めないくせに」

 私がそう言うと、小山田の顔色が、見る見る失われていきました。

「今、何て言った」



 私は黙っていました。クリスタルのグラスに、早乙女は酒をついでいきます。グラスが冷え切っているために、その切子模様がたちまち霜で曇っていくのを、私は眺めていました。

「お前に、罪を背負ってくれなんて言うつもりはないんだ。ただ、少し手を貸してくれればいいんだ。最初、お前が和江を殺したことにして、自首してほしい。その間、俺は姿を晦ます。結審直前に俺は姿を現して、証拠となる品物を提出する。お前は証拠不十分で無罪になるだろう。それから俺は自供を覆す。そして一切の犯行を否認する」

「何を言っているのか、判らないわ」私は大きくかぶりを振りました。「第一、私が自首した後に、あなたが二度と姿を現さないかもしれないじゃないの。それに、そんなに都合がよく裁判が運ぶわけないわ。有罪になるかもしれない。人を一人、殺しているのよ」

「出刃包丁を持って向かってきたのは、あいつのほうなんだ」小山田はグラスを口まで持っていきながら、ほんの少し飲んだだけで、またテーブルの上に置き、「正当防衛だった。だが、警察はそれを言っても、信じてくれないだろう――俺がヤバい商売に、手を染めているからな」

「嘘!あなたがここのところ頻繁に電話してきたのだって、殺人を計画していたからなんだわ。それ以前には、あまり連絡をくれなくなっていたじゃないの。私に飽きたのだと思ってた」

「それは、違うね。俺は、お前に、連絡を取りたかったが、我慢していたんだ」一語一語、押さえ付けるような口調で、小山田は言いました。

「俺は、お前を、忘れようとしていた。だが、忘れられない。今も、忘れようとしているんだ、お前を呼びつけておいて――おかしな話だがね」

「だったら、完全に忘れたらいいじゃないの!殺人の片棒担ぎなんて、私にさせないでよ!」

 金切り声を出した私を見て、早乙女が素早く、私の頬を張りました。二発、三発と強烈に連打され、四発目を打たれそうになった時に、

「早乙女!」と小山田が叫びました。早乙女は再び壁際へと下がり、後ろ手を組みました。



「唯、お前はいつも言っていたよな、『奴隷には鞭をくれるだけじゃ駄目だ、餌を与えてくれなくちゃ』って。だから俺は、ずいぶんお前に、餌を与え続けてやった」

 小山田は笑いながら、ゆっくりと頷きかけてきました。「たまにはご主人様の頼みを聞いてくれてもいいんじゃないのか。御主人様に餌を与えてくれよ。これが最初で最後だよ」

 私は涙が零れそうになるのを我慢して、私は固く眼を閉じました。小山田は絶えず、何かしらの企みを抱いている男でした。人を騙し、人の裏をかくことばかりを考えているのです。しかしよく聞いていると、その話は破綻が非常に多いのです。強引な辻褄合わせ、勝手な解釈、そして自分に都合のいいようにばかり、話を運びたがります。二十歳の頃から金融の取立てをやっていた小山田は、がむしゃらな実行力は持っていますし、口は巧みです。

けれど、何か重要なものがすっぽりと欠落していました。あまりにも自分に溺れるというか、何かをはじめるにしても、衝動的で、自分のことしか見えていないのです。全体を俯瞰したり、冷静に状況を判断したりすることは、最初から考慮していないようでした。



「お前が逮捕された時になあ、どこも傷付いていないとまずいだろ。過剰防衛だと思われたら、計画はお終いだからね」

瞼を閉ざしているので、小山田の声だけが聞こえてきました。しばらくの静寂の後、フローリングの床を踏み鳴らして、足音が遠ざかっていきました。ドアが閉じられる音が響き、静寂が戻ってきました。

 キッチンは最初、照明がついておらず、私はスイッチを探すのに、かなり手惑いました(小山田のマンションには何度も行ったことがありましたが、調教を受けるためだけでしたので、キッチンに入ったことはありませんでした)。



明かりをつけ、室内に入ると、床に広がる夥しい血に、足元を滑らせそうになり、私はおもわず小さな声を上げました。

仰向けに、女の死体が横たわっていました。

最初見た時は、それが小山田の妻の和江であるとは、判りませんでした。顔の窪みが血だまりと化し、長い髪は血を吸ってどす黒く変色して、顔全体に絡み付いていたからです。瞼はめり込むようにきつく閉ざされ、それが死体の顔を、ますます判別しにくいものにしていました。

顔の左半分を下にして、横寝しかかっているような格好でした。両手はあたかも何かに祈っているように組み合わせられて首の辺りに添えられ、グレーのスカートをはいた脚は、閉じたまま左に大きく、折り曲げられていました。胸部と顔面、そして左腕を刺されていましたが、凶器のようなものは、見当たりませんでした。



いくつも出来ている血だまりを避けながら、私は死体の反対側に回り込み、さまざまな角度から、懸命にその顔を確かめようとしました(死体の顔に手を触れるのが、怖かったのです)。私が動くにつれて、血の匂いも動くようで、それが鼻を衝き、咽返って、気持ちが悪くなりした。そしてやっと、死体の唇の辺りをみているうちに、そのめくれあがったかたちに、見覚えがあると思いました。



とても眼医者をしているとは思えない、派手な顔立ちの女だったと、記憶しています。いや、時として、水商売の女のような雰囲気を持った女医を見かけることがあるものです。和江はまさに、そういったタイプでした。背が高く、髪は腰まで届くストレートのロング。黒目がちで、一見して勝気そうだとわかります。

和江は小山田よりも四つ年上ですから、40歳になる筈でした。以前からも時々私のマンションに押しかけてきて、脅しや嫌がらせめいたことを言ったことがありました。

小山田はこの女と、事実上は別居状態にありました。再三、小山田が離婚を求めていたのですが、和江が頑として、それに応じなかったのです。ノイローゼ気味になっていて、心療内科に通っているということを、彼女自身の口から聞いたことがあります。



「あんたさえいなければ、あたしはこんなに苦しまなくてもいいんだから」と和江は言っていました。「あんたさえいなければ、あたしは診療内科に行って、馬に食わせるほどの薬を飲まなくていいんだから――」

私は死体を見下ろしながら、『馬に食わせるほどの薬』という、滑稽にも取れる言葉を何度も反芻していました。おまけにこの女は女医だという。女医が馬に食わせるほどの薬などどいう言い方を、するだろうか――

不意に、胸の下から上に、何か得体の知れないものが強烈に競りあがってきました。吐き気かと思いましたが、そうではありませんでした。「あんたさえいなければ」といった和江のほうが消えてしまったという事実に、私は衝撃を受けていました。



「見てみろ。言ったとおりだろう。この女、顔色一つ変えない」

 ガラスの灰皿を手に持ってきて、何も言わないまま煙草を吸いはじめた私を見て、小山田が早乙女にそう声をかけました。決して私は、動揺していないわけではありませんでした。

私に言わせれば、小山田のほうが、あまりにも他人の感情に盲目で、私がそれに対して慣らされてしまったのです。

いつの間にか、早乙女はソファーに座っていました。脚を組み、にやにやと哂っていました。以前には、小山田の前で、早乙女は決して座らせられることはありませんでした。いつも直立不動の姿勢で壁際に立っていなければなりませんでした。これから早乙女が、何か重要な役割を任せられることになるのだな――私は直感的に、そう感じとっていました。

 小山田のマンションは、北新宿の都庁のすぐ傍、ゆるやかなスロープを上がっていったところにありました。早乙女の運転していた車から出ると、敷地のあちこちに植えられたこぶしや樫の木立に、細い雨が降りかかっていました。



 巨大なガラス箱がいくつとなく組み合わせられて、闇のなかにそそり立っているような印象を与える建物でした。堅牢で豪奢なのですが、どこか不吉な印象を、来る度に感じていました。大理石の床の長いエントランスを歩きながら、私はどういうわけか、SMクラブの事務所のある池袋のマンションといつも比較しているのでした。



SMクラブの事務所は北口の駅から近くの、ごみごみした一画にある、かなり老朽化した建物の七階でした。こうした風俗店がよく入っているような雑居ビルではなく、ごく普通のマンションでした。入り口には、小さな鉢植えが、乱雑に並べられていました。管理人室は、入ってすぐのところにあるのですが、管理人がいるのを見たことはありません。エレベーターの脇には、

「風俗店は、このビルから出て行け!」

 という張り紙がしてありました。SM嬢たちの待機所も、同じマンションの五階にあり、SMの道具をつめた大きなバッグを持った嬢たちを、エレベーターに乗り合わせた住民たちは、じろじろと眺め回すのでした。



 いつも、待機室に戻る時に、エレベーターの壁に張られた鏡の前で、乱れた髪を丁寧に直していた記憶があります。それは、他の住民たちと眼を合わせないようにするためでした。また、プレイの直後で自分の裡に散らばってばらばらになった感情を、纏めなおすためという目的もありました。長い時間お客に躯をあやつられていると、自分で自分が、よく判らなくなっていくのです。しかし、鏡の中に映っている自分の表情のなかに、さっきまでのさまざまな姿態の集積が盛り込まれている気分になり、嫌悪から眼を背けることも、よくありました。


「来てくれないかと思ったよ」

 居間に入ると、小山田が流木のようにソファーに横たわったまま、こちらに声をかけてきました。一目見て、衰弱し切っていることがわかりました。

 小山田は、決して強靭な男ではありません。むしろ驚くほど、繊細でした。しかし非常に被害者意識が強く(それが一体何に基づくものなのかは、今になっても判りませんが)、いつも誰かに対して復讐を唱えていないと、気がすまないようなところがありました。

「どうしたんだ。どうしてずっと、電話に出なかった」

 ソファーから身を起こし、こちらを睨み付けてきました。私は対面に腰掛け、剥き出しの膝頭をてのひらでさすりながら、小山田と、壁際に立った早乙女を交互に見詰めていました。

「仕事中に電話してきたって、出れないわよ」



 小山田が他の客とのプレイの最中に電話をかけてくる、その執拗さにこの二週間ほど私は、悩ませ続けられていました。マナー・モードにしていても、携帯がバイブで小刻みに

顫えるので、「電源を切ってくれ」と客は皆、言いました。私が無視していると、勝手に私の携帯を切ろうとする客もいました。

「誰なんだ、男なんだろう」

「そうよ。切っても構わないけど、その後で誰かが、この部屋にやってくるかもしれないよ」

「勝手なこと言いやがって。店に、言いつけるぞ」

「いいわよ。今、かけてきているのは、店のオーナーなんだから」

 客は理由がわからないまま、私の口調の中にある、投げやりな、しかし異様な気配に博(う)たれて、気まずく押し黙ってしまいます。



「お前が今日、ここに来てくれてよかったよ、唯。そうでなければ俺は、身の破滅だった」

 小山田は、聞き取れないほどの小さな声で言いました。私は小山田の右耳から首筋にかけて、細長く血痕のような線がこびりついていることに気付きました。

「大変なことになったよ」

 私は黙って、次第に昂まってくる自分の心臓の鼓動に耳を澄ましていました。かなり長い沈黙の後、小山田は不意を突かれたとでもいうように、

「どうしたんだ。おい、どうして黙ってる。どうして『何が大変なの』と訊いてくれないんだ」と言ってきました。

「訊きたくないよ。厭なことが起きる予感がするから」

「どうして、そんなことがわかる。なぜ、そう断言できるんだ」

 このように、自分一人で会話の方向性を決めたがる言い方を小山田がしはじめると、もう何を言っても駄目なのでした。私は、銀ラメが入った長い爪を使って、ピアニッシモのボックスの蓋を開けようとしました。

「駄目だ。わかっているだろう。ここで吸うな」小山田は、眉を顰めていました。煙草を吸わず、酒もほとんど飲めない男でした。

「前に来たときは、良かったじゃない」

「よく見ろ。灰皿がないじゃないか。どうしても吸いたかったら、キッチンのテーブルの上に一つだけ灰皿を残しているから、それを取ってきてくれ」