前代未聞のアカデミー賞作品賞読み間違えが起こったその日、一瞬だけ作品賞となった『LaLaランド』を観てきた。朝一番の上映だったので、終映時点では、まだ美術賞くらいしか受賞していなかった。観終わってから、アカデミー賞の速報を確認しながら、「おー、撮影賞とったか。確かに画面キレイだったものなぁ。いまどき珍しく、フィルムで撮ったらしいし。」と思ったり、「エマ・ストーンが主演女優賞か。くさすぎず、美人過ぎず、キュートだったし、この夢のような妄想のような作品にすごくあっていたものねぇ。」と思ったり、「監督賞。32歳でこの作品の本を書き、そしてこのように撮れるのは立派だよなぁ。『セッション』もキレキレだったものなぁ。この映画には『セッション』にあった画面構成などの青臭さもあってよかったよ。若い監督!』。そして速報の作品賞の欄に『LaLaランド』と出た。朝に見た映画が作品賞をとるのは嬉しいねぇ、なんて飯を食っていたら、その後の訂正。ボニー&クライドが間違えちゃったのね。別の意味で、また蜂の巣よ。この2人。その後、ウォーレン・ベイティが、訂正に、批判も含めてもろかぶりしに出てきたところは、奴は男だねぇ。きっとフェイ・ダナウェイに、俺に任せとけ!とディック・トレーシーばりにいって出てきたことでしょう。

 

 でね、この作品がアカデミー賞とっても良かったと思いますよ。
 

 少年・少女というか、青年達の夢の話。彼らが夢にふける。妄想する。これこそが夢を見るということなんだよね。この夢は、ミュージカル・シーンで描かれる。歌もダンスも衣装も、まぁ、楽しい。心躍ります。観終わってからサントラ聞きまくりですよ。ミュージカル・シーンも良いんだけど、後半に描かれるドラマ部分のほうが見ごたえがある。主演2人の演技力がここで冴え渡る。そして監督の演出力もここで発揮されたのかもしれない。ミュージカル・シーンは気合を入れて撮ったけど、ここは気合を入れて撮らずに、このクオリティが出せるハイレベルな演出のような気すらする。ようするに、主演2人と監督が上手いのだろう。ミュージカル・シーンよりもドラマのほうが面白いゆえに、この作品のラスト15分のミュージカル・シーンが心に何かを残すのだろう。

 先日ラジオで笑福亭鶴光師匠(あの、「つるこでおま」の鶴光師匠)が「夢に人がくっつくと、儚いという字になる。人が夢見るって儚いのよ。」と、さすが!なことを言っておりました。少年・少女、青年が見る夢はキラキラしている。そして大人になって、その夢が叶ったとしても、そこにはキラキラは無くて。大人になってから見る夢は、この映画で描かれるようなキラキラした夢なのかな。もっと儚いのかな。そして、人を好きになり、付き合い、振ったり、振られたりした人にとって、この映画は甘酸っぱいね。いろんなキラキラ、ラララが詰まっているLaLaランド。観ている間も観終わってからも、楽しく、そして心がぎゅっとする作品でした。

 

 主演の男は『セッション』同様、「周りはバカばかり。俺が世界一だぜ!」と思っているのに暗い男というクズ野郎。そのクズが徐々にナイスガイになっていく過程も納得行きます。ライアン・コズリングが、なかなかナイス。そのクズ野郎に、オーディションで落ちまくっている魅力がありそうでないというか、なさそうであるという見事なまでに微妙な女子が恋をするという話。この見事なまでに微妙な女子を演じ、男心をくすぐりまくったエマ・ストーンの演技力にアカデミー賞。納得。

 松尾スズキ版『キャバレー』を観てきた。2007年の松尾版は観ていない(2010年12年の小池修一郎、藤原紀香版も観ていない)が、93年にシアター・アプルで上演されたトニー・スティーブンス版は観ている。当時のサリーは前田美波里、クリフは草刈正雄、MCが市村正親。ナチスの時代が迫っているベルリン。この時代のベルリンは退廃的という言葉で表現される。同じ時代のベルリンが舞台の『グランドホテル』も退廃的な時代を舞台にしたミュージカルといわれる。退廃的とはどういう意味か。衰え廃れていること、道徳的に乱れ、不健全なことを退廃的というようだ。この時代のベルリンは衰え、廃れているとか、道徳的に乱れ、不健全な場所だったのだろう。道徳的に乱れ、不健全な場所。確かにキャバレーはそういうところだろう。そういう時代の象徴がキャバレーということか。94年版のキャバレーを観たときにまだ私も若かった。出演者も若かった。草刈正雄さんが、クリフだもの。今回のクリフは小池徹平くんだもの。パンフを見ると草刈さんは当時から稽古ではバンダナを巻かれていたが、まだまだ青年の役がよく似合ったし、ビバさんのサリーも素敵な女性だった。『ミス・サイゴン』直後の市村MCも活き活きと演じていた。ラストは、ナチスが迫ってくることの怖さを見せ付けられた舞台だった。今思うと、当時の私には世界史の勉強の1つとなった舞台でもあった。

 

 今回の松尾スズキ演出版の『キャバレー』は、どうだったのか。

 サリーは長澤まさみ、クリフ小池徹平、エムシー(MCではない)に石丸幹二、シュナイダー夫人に秋山菜津子、シュルツに小松和重、エルンストに村杉蝉之助。脇は演劇畑で松尾スズキの世界にはまる上手い俳優が固め、メインはフレッシュな長澤まさみと小池徹平、そして元四季が松尾スズキの世界とはまるのか?の石丸幹二である。

 メインの3人は非常に客を呼べるキャスティングだと思う。実際、長澤まさみはエロいサリーではなかったけど、実にキュートなサリーだった。サリーはキュートでいいのだ。ビバさんのサリーだってキュートで魅力的だったもの。キャバレーの歌姫という役ゆえにエロい役というイメージのサリー(事実、今回のポスターも長澤まさみのセクスィなポスターだったが)だが、明るくてキラキラはじけるようなサリーのほうが馴染み易い。一方、真面目で頭が良くて人もそこそこいい人のクリフを小池徹平が手堅く演じる。ともすればどうでもいいことが描かれる松尾スズキの舞台において、手堅い芝居(と歌で)で魅せる小池徹平は大変良かった。エムシーの石丸幹二は、可もなく不可もなく。石丸さんは、トートの時もそうだった。彼がやる色物の役は、普通。ミュージカル界で真面目で優しい美青年をやらせれば、他の追随を許さない石丸さん。正直、今でもクリフ行ける。というよりクリフのほうが似合う。小池君にエムシーやらせたほうが面白かったと思いますよ。出演者は、秋山菜津子の上手さが光まくる。役者の歌を聞かせる彼女の歌もいい。小松さんも同じ。ミュージカルに歌手は要らない。役者の歌が聞ければいい。そういう意味では、長澤まさみ、小池徹平、秋山菜津子、小松和重がいい芝居と歌を見せてくれた。

 ここまで役者について書いたが、正直、今回は役者のことをとやかく言う舞台ではないと思う。松尾スズキの演出がこの作品の主役である。松尾スズキは、長澤まさみを輝かせるというよりも彼女の輝きを使ってこの作品を作った。小池徹平を見せるためではなく、彼を使って作品を見せた。はっきりいって、1幕は長すぎる。1幕に1時間50分強。長い長い。いつ終わるのか、正直なところ眠たくなった。細かいギャグやどうでもいい笑いを散りばめる。それも長くなった原因だろう。しかし、このキャバレーという作品。実は怖い作品である。前回見たときはナチスの怖さが地獄の底からわきあがってくる怖さがあった。今回の松尾スズキ版。ナチスの怖さを描いてはいない。確かに、エルンストがナチ党員で彼の存在がこの作品のスパイスになっている。しかし、今回の舞台を観る限り、ナチスの怖さを描くのではなく、ナチスのみが正しい価値観であると当時の多数の人々が信じていく「正義」の怖さが松尾スズキ版には描かれていた。もっといえば、1つの「正義」のみが正しいと皆が信じ、それ以外は消えてなくなれという価値観の怖さである。舛添さんがパロディで出てくる。松尾スズキは、舛添さんを笑わせようとして出した後、彼は、世論という見えない大衆の「正義」によって抹殺された人の代表として出したのではないか。

 アメリカの大統領がトランプになった。トランプはめちゃくちゃやっているが、トランプになったことはいろいろと考えさせる。トランプの当選前、トランプ支持者は表立ってトランプ支持とはいえなかった。それは、トランプ支持といえば、差別主義者だと決め付けられたからだ。差別は良くない。しかし、トランプ主義者を差別していた「正義」という世論があったのも事実。「正義」によって自分の趣味・嗜好・思想を表明できなくなるほど息苦しかったのがトランプ以前の社会ではないだろうか。日本でもそうである。ブログやツイッターで失言したら即炎上。好きなことすらいえない。自身の好きなことを言った際、誰かの「正義」に照らし合わせ、それにそぐわないとフルボッコ。それを擁護した人もフルボッコ。だから擁護できない。舛添さんなどその被害者の最たるもの。いまは、石原慎太郎をそうしようとしているのかも。そんな時代が、ほんの数ヶ月前まであった。いや、今もか。その時代こそ、今回の『キャバレー』で描かれたナチスが迫っているベルリンと見事に重なる。松尾スズキは、この『キャバレー』で当時のベルリンを描くのではなく、今の日本や世界を描きたかったのではなかろうか。ナチという悪いものに脅かされた人々の話ではなく、世界が1つの「正義」という価値観に変わっていく時代に生きた人々の話を悪夢として描こうとしたのだろう。これは悪夢である。クリフが観たエムシーが出てくる悪夢である。エムシーはクリフの中にいるのだろう。悪夢といえどもこれは夢。夢の世界はミュージカルと相性がいい。松尾スズキはミュージカルは嫌いではないはずだ。音楽や歌が客の心を高揚させることを良く知っている。その演出が冴えている。「ヴィルコメン」に向かうオープニングなどミュージカルの興奮そのもの。
 2017年の今日。この作品を観られてよかった。昨年にこの作品を観ても同じ感動は得られなかったはずである。

 私が舞台鑑賞にはまるきっかけになったのが、92年の『ミス・サイゴン』初演。帝劇で観た豪華な舞台セット、美しく奏でられる生演奏の音楽、そして市村正親の客席を圧倒する演技が、ベトナム戦争の被害者である悲しい悲しい主人公キムの人生を際立たせ、舞台というのはこんな感動を経験できるのかと教えてくれたのがこの作品。

 

 2016年に再演されたので観にいった。後に撤回されるが、市村エンジニア・ファイナル公演と銘打たれた本公演。一昨年のサイゴンでは、ガンで市村が降板したため、一昨年は市村エンジニアを観られず、今回は、どうしても市村で観たいと思っていたのが、チケットが入手できず、また仕事の都合で市村の出演回にどうしても行くことができずに残念。ダイヤモンド☆ユカイがエンジニアを演じた公演を観にいった。

 

 今回のサイゴンは、登場人物がとにかく怒る。全編にわたって誰かが怒っているような舞台だった。音楽は相変わらずいい。シェーンベルクは『レ・ミゼラブル』で有名だが、この『ミス・サイゴン』の方が音楽としては美しく、そしてミュージカル初心者の耳に心地よいのではないだろうか。そんな美しい音楽でつづられる物語は壮絶。ベトナム戦争に翻弄された人々を描く話ゆえに、常に登場人物たちは過酷な状況を生きている。先に登場人物たちは常に怒っていると書いたが、戦争とはそういうものなのだろう。常に何かに怒り、常に、自身の欲望をコントロールしなければならないがコントロールできない。それが戦争なのだろう。兵士達は人を殺すのである。人を殺すためにベトナムに来たアメリカ人兵士と、戦争下で生きるベトナム人たちの日常は、気も休まらず、落ち着くことなど無いはず。それが怒りという感情につながることを描いた今回の演出は、戦争の異常さを観客である我々に突きつけた。

 

 また人の親になってはじめてみたこのサイゴンは、やはり主人公キムの息子タムを涙無しでは観られない。一幕ラストの『命をあげよう』を涙無しでは観られない舞台となった。タムが私自身の息子とそう変わらないチビである。ゆえに、タムのことを思うだけで今でも涙がこみ上げてくる。

 

 ダイヤモンド☆ユカイのエンジニアがとにかく魅力的であった。はっきりいって、これまでのエンジニアで魅力的なのは市村のほかは笹野高史くらいで、筧も、別所も、橋本もいまいち。芸達者な彼らでも2幕のエンジニアの見せ場『アメリカン・ドリーム』が長く感じられた。駒田のエンジニアは、全編に渡って人間としてまったく魅力を感じないエンジニアでミス・キャストだった。

 一方、ダイヤモンド☆ユカイのエンジニアである。「農業、セックス、ロックン・ロール」や「ギラッチ」という謎の名言を残している彼だが、いい加減にノリでそんなことを言っているとも思えず、彼は物事をよく考え、真面目で、そして優しく素直な人柄なのではないかと、彼をテレビで見るたびに思っていた。要するに、私の彼への好感度はこのサイゴンを観る前から高かったわけだが、この舞台を観てますます彼が好きになってしまった。かといって、他のミュージカルにダイヤモンド☆ユカイが出ていたら観にいくかといわれると、微妙である。今回のダイヤモンド☆ユカイは、見事にエンジニアにはまっていた。あの赤いジャケットは私物だろうと思わせるくらい似合う。そしてテレビで見るダイヤモンド☆ユカイにしかみえないダイヤモンド☆ユカイが、エンジニアなのである。エンジニアはダイヤモンド☆ユカイといっても過言ではない。ダイヤモンド☆ユカイってちょっと変だよね。真面目に現実と向き合っているんだろうし、彼の美学で生きているんだけど、ま、なかなか自身の知り合いにはいないキャラでしょう。それがこのエンジニアにはまる。どうみてもダイヤモンド☆ユカイなんだけど、アメリカにかぶれ過ぎてああなっちゃった(ダイヤモンド☆ユカイみたいになっちゃった)人=エンジニアにピタリとはまる。戦争でみんなが怒っているなかに、ロックンロールというあのダイヤモンド☆ユカイがいる違和感。でも彼は彼でこの戦争の世の中を懸命に生きている。そしてかぶれすぎたアメリカに行くために手段も選ばないダイヤモンド☆ユカイ。ダイヤモンド☆ユカイの違和感がエンジニアの違和感と、はまることでますます魅力的なエンジニアになった。なんで、こんなアメリカかぶれなんだろう、なんでこんなにダイヤモンド☆ユカイなんだろうと、思って全編観ていた。そして、全編彼は全力でエンジニアとして生きていた。歌手が演じたミュージカルとは全く違う。マルシアが初めて『ジキルとハイド』にでたときのようなハマりよう。作品に向き合い、物語を生きたダイヤモンド☆ユカイのエンジニアは、全編魅力的、そして『アメリカン・ドリーム』も聞かせる。彼がどうしてこんなにアメリカにかぶれて、ダイヤモンド☆ユカイになってしまったのかをあの1曲でダイヤモンド☆ユカイは客にぶつけてきた。今回はこのエンジニアと壮絶な『ミス・サイゴン』の旅をした。つらい物語だけど、ダイヤモンド☆ユカイがいなければ、このつらい物語に最後までおぼれることはできなかったように思う。市村のエンジニア続投も嬉しいが、ダイヤモンド☆ユカイのエンジニアが再演されることを切に願う。

 2016年末、アンソニ・シェーファーの『スルース』が深作健太演出で上演された。老いぼれたミステリー作家と、その作家の妻を寝取った若者2人の騙しあいの舞台。今回はミステリー作家を西岡徳馬が演じ、若者を新納慎也と音尾琢真のWキャスト。私は音尾の舞台を観た。新納の舞台も観たかったが、スケジュールが合わず断念。

 

 この『スルース』は映画にも複数回なっているし、日本では浅利慶太演出で劇団四季が再演を繰り返してきた。私はこれまでに四季の『スルース』は観ている。

 登場人物は5人!しかも男だけ。

 同じ戯曲ゆえに今回は演出と演技の違いを主として楽しむ舞台となった。

 

 深作版の今回の『スルース』は男の紙くずみたいなプライドを描いた舞台となった。この紙くずみたいなプライドが男を愚かな行動に向かわせる。とりわけ権力や金を持っている方が自身の老いに恐怖を感じたときに、この紙くずが当人にとっては鉄の塊となりそこに火がつけられ熱く燃え滾るという実に情けない男の間抜けさが描かれる。そしてその間抜けさに気づけないほど哀れな男を西岡徳馬は熱演した。一方、音尾琢真の若者も気のいい奴だが、初老の作家にコケにされたことに怒り、初老の作家を苦しめることを繰り返す。音尾琢真の明るさがそこに出たのか。ラストまで、この若者に好感が持てた。どうしようもない間男なんだけど、チームナックスらしい気のいい兄ちゃんのキャラでなかなかの好演であった。今回初舞台となるであろう、残り3人の男優達も初舞台とは思えないなかなか重厚な芝居を見せたことを記しておく。

 

 浅利版の『スルース』は、洗練された無駄なことを一切見せない舞台だったように記憶している。まさに四季らしく日下武史が明瞭な台詞回しで初老の作家を演じ、濃くても四季らしく大げさなことをしない下村尊則(現:下村青)がイタリア人の間男を濃くならないように演じていた。それに比べ今回の深作版は、決して洗練された舞台になっていなかった。西岡演じる初老の作家は日下に比べれば粗野だったし、音尾演じる若者は下村に比べたら粗野で好青年であった。四季版が物語に身をゆだね、同スピードで最後まで気持ちよく走った舞台だとするならば、深作版は、1幕、2幕ラストにそれぞれ大波が押し寄せてくる演出だった。『バトルロワイヤル』などの深作の映画を数本見た私としては、もっと全編にわたりエネルギッシュな濃厚なくどい舞台を期待したが、その意味では肩透かしを食らった。深作としては、何を描きたかったのかが非常にわかりにくい演出だったと思う。観客を欺むくために演出を薄味にしていたのかもしれないが、もっともっと濃くてもいいと思う。もっと男達のいやらしい欲望がみなぎる舞台を観たかった。四季の舞台が端正ゆえに、その反対の怒涛の如く、生々しい血と汗が全編に滲むような『スルース』も観てみたい。深作らしい演出をそう決め付けるのは、もったいないことなのかもしれないが。

 劇団四季の子供ミュージカル『エルコスの祈り』を観てきた。この作品を観るのは2度目。完全に児童達を管理する小学校にアンドロイドの先生がやってきて、管理で閉ざされた小学生達の心を開いていくという話。この作品でエルコスが子供達に歌う『語り合おう』は名曲だと思う。

 劇団四季は子供ミュージカルでも決して手を抜かないとこれまで感じていた。作品の脚本も音楽もセットもよく練られている。またキャスティングも子供ミュージカルだからといって手抜き無く、場合によっては他のロングラン作品よりも実力派をそろえることもあったと記憶している。そしてその実力派が一切の手抜きない芝居を見せていた。

 

 今回のエルコスも話はよくできているし、ラストに会場全体で歌う『語り合おう』も子供達と一緒に懸命に歌ってしまった。私の隣に座っていた小学生2名は、開幕前までDSをいじっていたが、舞台を真剣に観入り、ラストでは私よりも大きな声で『語り合おう』を真面目に歌っていた。こういう観客が隣にいることは大変嬉しい。彼らと私も一緒に舞台を楽しんだ。

 

 ただ今回の公演に不満が無かったわけではない。

 開幕して20分くらいまでどうなってしまうのだろうと思った。明らかに素人しか出ていないと感じる演技。プロの劇団なのかと思う薄っぺらい芝居が続いたのである。深水彰彦演じるストーン博士が出てきて舞台の空気がようやく一変する。舞台役者の発声、重厚感溢れる立ち振る舞い。ようやく観ていられる役者が出てきたと思ったら、すぐに出番が終わる。ようするに、深水彰彦だけが見ていられる役者であり、あとはまったく素人にしか見えない。さらに、いい意味でも悪い意味でも四季の特徴であった母音が強調される発声もほとんど感じないので、四季を観に来たという印象が薄い。昨年見たときに主役として舞台を引っ張っていた古田しおりのエルコスも今回は慣れて来たのかいまいち。美人度も落ちていた。

 

 劇団四季よ。どうしてしまったのか?キャスティングと役者が手抜きに感じられた舞台であった。