2016年末、アンソニ・シェーファーの『スルース』が深作健太演出で上演された。老いぼれたミステリー作家と、その作家の妻を寝取った若者2人の騙しあいの舞台。今回はミステリー作家を西岡徳馬が演じ、若者を新納慎也と音尾琢真のWキャスト。私は音尾の舞台を観た。新納の舞台も観たかったが、スケジュールが合わず断念。
この『スルース』は映画にも複数回なっているし、日本では浅利慶太演出で劇団四季が再演を繰り返してきた。私はこれまでに四季の『スルース』は観ている。
登場人物は5人!しかも男だけ。
同じ戯曲ゆえに今回は演出と演技の違いを主として楽しむ舞台となった。
深作版の今回の『スルース』は男の紙くずみたいなプライドを描いた舞台となった。この紙くずみたいなプライドが男を愚かな行動に向かわせる。とりわけ権力や金を持っている方が自身の老いに恐怖を感じたときに、この紙くずが当人にとっては鉄の塊となりそこに火がつけられ熱く燃え滾るという実に情けない男の間抜けさが描かれる。そしてその間抜けさに気づけないほど哀れな男を西岡徳馬は熱演した。一方、音尾琢真の若者も気のいい奴だが、初老の作家にコケにされたことに怒り、初老の作家を苦しめることを繰り返す。音尾琢真の明るさがそこに出たのか。ラストまで、この若者に好感が持てた。どうしようもない間男なんだけど、チームナックスらしい気のいい兄ちゃんのキャラでなかなかの好演であった。今回初舞台となるであろう、残り3人の男優達も初舞台とは思えないなかなか重厚な芝居を見せたことを記しておく。
浅利版の『スルース』は、洗練された無駄なことを一切見せない舞台だったように記憶している。まさに四季らしく日下武史が明瞭な台詞回しで初老の作家を演じ、濃くても四季らしく大げさなことをしない下村尊則(現:下村青)がイタリア人の間男を濃くならないように演じていた。それに比べ今回の深作版は、決して洗練された舞台になっていなかった。西岡演じる初老の作家は日下に比べれば粗野だったし、音尾演じる若者は下村に比べたら粗野で好青年であった。四季版が物語に身をゆだね、同スピードで最後まで気持ちよく走った舞台だとするならば、深作版は、1幕、2幕ラストにそれぞれ大波が押し寄せてくる演出だった。『バトルロワイヤル』などの深作の映画を数本見た私としては、もっと全編にわたりエネルギッシュな濃厚なくどい舞台を期待したが、その意味では肩透かしを食らった。深作としては、何を描きたかったのかが非常にわかりにくい演出だったと思う。観客を欺むくために演出を薄味にしていたのかもしれないが、もっともっと濃くてもいいと思う。もっと男達のいやらしい欲望がみなぎる舞台を観たかった。四季の舞台が端正ゆえに、その反対の怒涛の如く、生々しい血と汗が全編に滲むような『スルース』も観てみたい。深作らしい演出をそう決め付けるのは、もったいないことなのかもしれないが。