江藤淳の「村上龍・芥川賞受賞のナンセンス」を読む | さむたいむ2

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河出書房新社の「江藤淳」を拾い読みしています。
いま再び仕事をしているので時間に余裕がなく、拾い読みしかできないのですが、意外とこれ余計なものを読む必要がなく、怠惰に時間を浪費することもなく、案外刺激的かつ効果的な時間となっています。

江藤淳は村上龍のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』をサブ・カルチャーと決めつけて批評さえしていないこの一文は、実は「サンデー毎日」の1976年7月25日号で「談話」として発表されたものです。

「社会学の述語に”サブ・カルチャー”という言葉がある。”下位文化”と訳されているようだ。国語としてあまり熟していると思われないが、村上龍の作品は、結局一つの”サブ・カルチャー”の反映にすぎず、その”表現”にはなっていない、というのが、私の感想である」

この一文では江藤が何をいいたいのかわかりません。村上龍の作品を「サブ・カルチャー」の括りに入れて、なおかつその「反映」にすぎなくて、なおかつ「表現」になり得ていない、という断定は、村上龍に対してというより、「群像新人賞」ならびに「芥川賞」の選考委員に対する批判としか読めないのです。

当時私も『限りなく透明に近いブルー』を読み、主人公リュウが福生で体験した米兵たちとのマリファナ・パーティーなどを刺激的に描いたものとしてしか読み取ることができなく、これが「芥川賞」に価するものかどうか判断しかねたものでした。ポルノグラフィックな場面の描写。セックス・シーンなどが過激に描かれています。

そもそも「文学」は雑多なものです。社会をトータル・カルチャー(全体文化)とサブ・カルチャー(下位文化)と分けるとしたら、アカデミックな文献に比べれば「文学」はサブ・カルチャーに入るでしょう。石原慎太郎の『太陽の季節』や大江健三郎の『死者の奢り』も従来の文学からみれば異端的です。

いままで文学が装ってきた「自己表現」が村上龍の登場で見事に破壊されました。あえて主人公をリュウとしたのは「私小説」を装い、村上龍本人と思わせる事で、この物語を「写実小説」と見せることで作者は素顔を「仮面」としたのです。庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』を全く同じ手法です。庄司の場合は背景に学園紛争があって、東大の安田砦が象徴的に語られています。学園紛争がマリファナ・パーティーに代わっただけです。庄司薫は「あとがき」のなかで「僕を探さないでください」とあえて書き添えています。

江藤淳は庄司薫も認めていなかったように思います。これは作品の内容がアメリカナイズされたものに対する拒否反応によるものなのでしょうか。あくまでも日本の文化に根差していなければ彼は納得しないのです。しかしこの変な拒否反応が田中康夫の『なんとなくクリスタル』をいう作品を押してしまいました。これは批評家としての汚点ではなかったのでしょうか。それ以降現代文学の批評はやめています。