西行、吉野を詠む(1) | さむたいむ2

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今日も元気で

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そもそも西行を詠むきっかけは吉野にあります。
実は横浜の義兄から吉野山に桜を撮りに行かないかという誘いがありました。吉野の山桜を一度観てみたいという想いがあったそうで、それは1週間かけてという意気込みでした。

私は即座に「桜はどこで撮っても桜ではないですか」と顰蹙を覚悟で応えてしまいました。桜は川越でも谷中でも観る事ができます。わざわざ吉野まで行かなくともお花見はできます。しかし吉野山の桜は特別です。それは分かるのですが、吉野行きに1週間費やすなら、念願の京都行き2泊3日を果たしたいと考えていたのです。

義兄は山桜をカメラで撮るのが目的です。たぶんアルバムをいくつか作るでしょう。私は写真は二の次で、とにかく京都を隈なく歩いて見たいのです。たぶん2泊3日では無理でしょう。場合によっては1週間費やすかもしれません。問題は費用です。暇はあってもお金がありません。ここが辛いところです。限られたなかで工面するしかないのです。

ただ吉野といえば西行が浮かびました。たしか彼も吉野山を歩いています。彼の場合は桜だけではありません。出家以前と後でも訪ねています。
それは吉野に何か惹かれるものがあったのです。

「あくがるる心はさても山桜 散りなんのちや身に帰るべき」

よほど桜が好きなのでしょう。しかしその憧れはせめて散ったあとには戻って来て欲しいものよ、といったところでしょうか。山桜に惹かれる心を取り戻したいのでしょうか。

他にもあります。

「吉野山梢の花を見し日より 心は身にも添わずなりにき」
「花見ればそのいはれとはなけれども 心の内ぞ苦しかりける」

こうなっては「花狂い」と言わざる負えません。出家まえあと関係なく花の頃は落ち着かないひとだったのでしょう。そんな西行が吉野山を歩き回る姿を想像すると、彼にとって世俗も仏門も関係ない事がわかります。

実は「花狂い」がために武士を、世を捨てたのではないでしょうか。