夫人、素顔の遠藤周作を語る | さむたいむ2

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昨日図書館に行き『夫・遠藤周作を語る』(文藝春秋社)と『作家の日記』(ベネッセ・コーポレーション)を借りてきました。
前回借りた講談社文庫の『作家の日記』には収録されていない部分があったので作品社のものを借りるつもりだったのですがなく、ベネッセのこの文庫が作品社から刊行されたものと同一ということなので借りてきました。
(残念ながら留学日記全部でなくこれも3分2収録ということで、フランソワーズのことは記されていませんでした)

遠藤順子夫人の語るこの『夫・遠藤周作を語る』はその名の通り、夫の素顔を余すところなく語っています。聞き手の鈴木秀子さんは聖心女子大学の教授でシスターとしても遠藤周作と親しくされた方です。

1996年9月に慶應義塾大学病院で遠藤周作は亡くなっています。腎臓病の治療のため入院したのですが、肺炎を併発したために呼吸不全に陥たのでした。享年73歳でした。氏は27歳でフランス留学し、肺結核に罹り3年足らずで帰国しています。夫人と出会ったのは留学前に慶応大学のキャンパスで会っています。しかし結婚されたのは、芥川賞を受賞した1955年(昭和30年)です。それから41年の間夫人は夫の病気の介護の連続でした。

この聞き語りは夫婦生活がいかに試練の連続であり、また多くのひとたちの助けを借りて互いに支えあえたかを示すものです。夫人は元々仏教徒でした。裕福な家庭に育ったお嬢さんでした。しかし彼はそんな夫人に「惚れた」のです。夫人も同じでした。夫婦喧嘩も絶えなかったそうです。それは全く違った環境に育ったものの常です。

遠藤周作は生涯母を愛していました。「母なるもの」をカトリックに見ていたのです。唯一嫁姑の争いに巻き込まれなかったことが夫として幸福であったことでしょう。夫人もまたもし義母がいたら、その体調の悪い夫を支え続ける他に気苦労もあったに違いありません。

私が驚いたのは遠藤周作の最期が腎臓の疾患によるもので、それも医者の不注意から透析のための手術が一時危篤状態になったことです。麻酔が完全に効くまえに手術したため苦痛が伴いました。医者は患者に苦痛を強いてはいけない。最善の方法がとられたか問題でした。遠藤の耳には「もう時間がないやっちゃおうか」という医者の声が聞こえたというのです。当日透析手術を受ける患者が4人いました。彼は2番目で最初の患者に手間取り急いで手術を始めたようです。

患者に苦痛を与えない医療を、遠藤は自らの様々な病歴から「心あたたかな医療を」という運動をしていていました。。それでもなお現代医療の行き届かないところがあります。一部の医者のなかにはまだ医療を施してやっているという意識があります。どうした方法が患者のためになるかを考えず、いかに患者を捌いていくかに気をとられています。もしこれで命を落とすことがあれば訴えられても仕方ないでしょう。当然遠藤はA病院から慶應病院に転院しました。

遠藤周作は旧約聖書にある「ヨブ記」を体現しました。耐えるしかなかったのです。ヨブは悪いことをしている人たちが栄えるなかで、ひとり苦労を強いられました。そのなぜかという煩悶が「ヨブ記」に書かれているそうです。私は聖書を読んだことはありませんが、ヨブほどはないにしても周囲にこのようなことは氾濫しています。それは平不満とは違います。善人が苦しむなか悪ははびこっています。それを書くために彼は病床で苦痛を耐えたのです。

『深い河』以降にも書く気力があったのです。しかし体力はもう限界にきていました。「おふくろや兄に会える」と意識朦朧のなか呟いたそうです。死もうそばまできていました。夫人は夫の手を握りそれを感じとりました。死はすでに恐いものではなく親しいひとたちが傍にいるのです。それがキリストのいう「復活」ではないかと夫人はいっています。夫が愛する母や兄と会えるのです。こう思う事が生死を境にした人たちには救いではないでしょうか。

それにしてもこうした試練は現代医療の在り方に疑問を投じます。しかしそのことに今スペースを割くつもりはありません。私は彼の留学の経緯について触れておきたいと思います。母親の影響のもとカトリックの洗礼を受け、それが多くの支援者を得ることになりました。遠藤周作の作家としてのスタートはもう幼少の頃から始まっていました。しかし決定づけたのはやはりフランス留学でしょう。

ネラン神父との出会いです。ナポレオンの時代から続く伝統のある貴族でした。広大な庭に鉄道が走っているほどの邸宅に住んでいる人です。その彼が第2次世界大戦中、戦場の塹壕なかで神の存在を確信し、戦後中国へのミッションを希望したのでしたが、中国には受けいられず、ならば日本の学生をフランスへ送ろうと来日ました。

遠藤周作は最初ドイツ文学を志していたそうです。慶應の佐藤朔教授のの『フランス文学素描』を読んでフランス文学の虜になりました。それがフランス留学を決意させるのですが、ネラン神父が費用を出してくれるていることは知らなかったようです。上智大学との繋がりもあったそうですが、彼の留学には多くのカトリック信者の協力がありました。それをあろうことかネラン神父に「こんな少ないおカネじゃとても暮らしていけない」と文句をいっていたと、一緒に留学していた三雲夏生が覚えていたそうです。

善意とはかくあるものです。戦後間もなくの留学で貧しいとはいえ遠藤周作の場合は恵まれた環境で学生生活を送れました。すべてこうした神父たちのお陰です。日本へも「フランス通信」など原稿を送って生活費を稼いだに違いありません。小説家になる前に彼は評論家として実績をあげていたのです。佐藤朔の他にも、神西清に『神々と神』の原稿を「四季」に紹介してもらい、堀辰雄や立原道造と知り合いになりました。そして「三田文学」では原民喜や山本健吉などと語りあったそうです。後年小林秀雄や河上徹太郎などが『沈黙』で窮地に立たされた遠藤を援護してくれたそうです。
留学が信仰だけでなく文学をも遠藤周作を支えたのです。

彼の一番の安定期は一年だけの「三田文学」の編集長を引き受けた時だと夫人は語っています。そう私が紀伊國屋のエレベーターのなかで遭遇した時です。サインをもらっただけの数分間です。彼は慶應の学生たちに手伝ってもらった仕事帰りです。よくいる不躾な青年のひとりであった私です。でもあの時の遠藤周作の素顔が夫人の語るひとであったのでしょう。
まさに学校の先生でした。

軽井沢の別荘では学生たちに囲まれてパーティーで遊び、そこには吉永小百合もテレビの仕事で遊びに来たようです。狐狸庵先生がゴールドブレンドのCMをした別荘の庭。当時の彼の頭のなかは堀辰雄がオーバーラップしていたのではないでしょうか。堀辰雄もまた若者を呼んで軽井沢を遊んだのです。雑誌「四季」と「三田文学」はこうした繋がりがあるのでしょう。

夫人はいつも同伴していました。フランスへ、イスラエルへも一緒に行っています。学生たちと楽しい時間を過ごしていました。こうした安息の日々があったのです。そして孫が聖心の付属の試験を受けた時、当時の学長によろしく頼むといったのですが受け居られず、しばらく不機嫌であったとか。しかし学長の立場が大変なことを知るとそのことを恥じるおじいちゃんでした。

残念ながらフランソワーズのことは書かれてはいませんでしたが、遠藤周作から引き継いだ「三田文学」の編集長であった加藤宗哉は、一周忌の後夫人から、遠藤が「フランスを離れる時、フランス人の女子学生とふたりで3日間の旅をしていたの」と聞きました。不意をつかれた加藤は曖昧に頷き「ご存じなんですか」とようやく言葉を返したのでした。

その時の夫人の輝くような眼、幸福そうな表情が最初加藤には解せなかったようです。しかし夫が日記に最後に書いてあったことまで夫人は承知していたのです。それはこれです。

「しかし、昨夜、最後の夜すらも、お前にふれなかった自分に満足しながら・・・・」

遠藤とフランソワーズの恋はこのようなものであったと夫人は信じています。だからこそ弟子にも笑顔で話せたのでしょう。

私もその話が真実であることを信じています。