山口百恵の「秋桜」 | さむたいむ2

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今日も元気で

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ふと山口百恵の歌が聴きたくなりました。いまコスモスがあちこちに咲いています。
あの可憐な花をさだまさしは思い浮かべて山口百恵を歌ったのでしょうか。
 
「淡紅の秋桜が秋の日の 何気ない陽溜りに揺れている」
 
「淡紅」と書いて「うすべに」と読ませ、「秋桜」と書いて「こすもす」と読ませ、それが秋の日に「何気ない陽溜り」に揺れています。こんな上手い詩そう思い付きません。
さだまさしが彼女のために思いを込めて作った歌です。
 
「こんな小春日和の穏やかな日は あなたの優しさが浸みて来る」
 
明日、嫁ぐ娘が母と向かい合い、静かに語り合っているシーンが伝わってきます。
 
「苦労はしても 笑い話に時が変えるよ」と母は娘に何も心配する事はないと明るくいいます。人生良いことばかりではありません。でもお前ならそんな困難も時間が解決してくれるよ、「私もそうだったから」と言いたげに微笑みます。ここが母と娘の情感が伝わるところです。
 
母っていいですね。思い出話を語りあっていたらいつもそこには母がいたことに気づきます。「いつの日もひとりではなかった」と娘は我が儘だった自分に気づきます。
 
そして突然涙を零し「元気で」と何度も繰り返す母でした。
娘もそれに応えて「ありがとう」を噛みしめます。
そして「もう少しあなたの子供でいさせてください」と絶句します。
 
こんな情景はいまあるでしょうか。母と娘の関係はいまではもっとドライでしょう。
でも心のどこかにはウエットな部分もきっとあるはずです。
 
しかし私はここに父親の不在が不満です。お父さん、あなたは何処へ行ったのでしょう。山口百恵は妹とともに母の手ひとつで育てられたと『蒼い時』で知らされています。それを踏まえてさだまさしは作ったのでしょう。
 
またそれでなくともそこに父親がいたら、こんなしみじみとした会話は成り立たないでしょう。父の不在は不可欠なのです。女だからこそ伝え合えるものがあるのでしょう。
 
私には娘がいません。しかし長男の嫁を見ていれば大体が分かります。彼女が実家の父に対する態度と母に対する態度は明らかに違います。父親は蚊帳の外。
母親と娘は仲良しです。きっと子供の頃は「パパ。パパ。」と甘えたに違いありません。しかし成人するに従って「うるさい存在」になっていったようです。
 
でもこれも愛情表現の裏返しと私は見ています。娘にとって父親は「くすぐったい」ものなのでしょう。それは肉親でありながら初めてみた男だからです。きっと深層心理で父親は避けなければならない存在になっていくのです。しかしその避けるという意識はいつしか恋人の存在に変わるのです。ここが男と女の微妙な関係です。
 
「ファザー・コンプレックス」です。これは男が母親に抱く「マザー・コンプレックス」と同じでしょう。人間もまた動物です。しかし動物も「近親相姦」を避けるために群れから離れます。猿の世界がそうなのです。人間もまた家族から離れて行きます。それが自然なのです。
 
私は生々しい話をしているのではありません。「秋桜」に父の存在が少しも現れていないことに不満があるだけです。母娘には邪魔な存在であれ、父がなければ不可能であることは確かなことです。母子家庭であれ父はかつては存在したのです。
 
だから「秋桜の世界」は「父性」の果たせぬ夢です。遠くで見守るしかありません。
山口百恵はいま何をしているのでしょう。彼女には息子ふたりいたと思います。
芸能界にデビューしたのは長男の方でしょうか。でも引退以降少しも姿を見せません。その「潔さ」は素晴らしものです。彼女は女の幸せを苦労の末掴んだのです。
芸能界に未練はないでしょう。
 
山口百恵のベストアルバムが沢山あるのを知っています。それほど彼女の歌が多くのひとに求められた時期があったのです。中学3年でデビューして、芸能界の人気を一人占めして、そして結婚のため引退しました。
 
この『百恵復活』は2枚組みのCDでヒット曲ばかりです。しかし「秋桜」はなかでも異色を放っています。それはさだまさしが山口百恵がこうあって欲しいといった夢を抱いて書いたからです。なぜならさだ自身が歌った「秋桜」よりも数段、百恵の歌の方が聴かせるのです。また提供者としてもそれは幸福なことでしょう。
 
ふと山口百恵の歌を聴きたくなったのは「秋桜」の季節になった所為でしょうか。
 
「淡紅の秋桜が秋の日の」は「ヴィオロンの溜息の咽び泣く」というヴェルレーヌの詩と何処かで繋がっているような気がします。