三島由紀夫の『煙草』について | さむたいむ2

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ここに1冊の本があります。三島由紀夫全集第1巻です。幾度となく繰り返し読んでいます。三島には数多くの作品がありますが、この巻は初期の頃のものを集めていて、13歳の時に書いた『酸摸(すかんぽう)』から始まり、16歳で『花ざかりの森』を、そして21歳で『煙草』と精力的に作品を発表しています。この早熟な文学青年は登場した時にもうすでに完成された作家であり、その才能に対する惜しみない賞賛は当時の読者が現代文学史上の巨峰としての揺るぎない存在であることに対する畏れでもありました。絶えず注目され、また注目されることを糧にして書いてきた作家です。その余りの過剰さに一線を引くひともいました。しかしそれでいて気になる存在なのです。私が読書に励み、またその感想を語ろうとする時、文学のひとつの基準として、残念ながらいままだ三島の域に到達した作家は皆無ですが、たえず彼の作品を念頭に置いています。
 
この初期の作品群のなかで私を捉えて放さないものがあります。『煙草』という短篇は作家三島由紀夫の原型であり、ここにすべてが含まれています。川端康成の紹介で雑誌「人間」に発表し、戦後文壇へ登場する切っ掛けになりました。
 
「あの慌ただしい少年時代が私にはたのしいもの美しいもとのして思ひ返すことができぬ。」という書き出しで始まり、さらにボードレールの詩のあげて、「少年時代の思ひ出は不思議なくらい悲劇化されてゐる。なぜ成長してゆくことが、そして成長そのものの思ひ出が、悲劇でなければならないのか。私には今もなほ、それがわからない。」
 
この青臭い表現は若い三島がフランス文学を好んで読んでいたことを意味します。なかでも『肉体の悪魔』や『ドルジェル伯の舞踏会』を書いたラディゲという早熟な天才を目標として書いていた時期があったのです。あえて「青臭い表現」といったのは、こうした文章を事も無げに書ける三島を当時私は心酔していたことを今認めるからです。この「青臭さ」は誰にもあるものです。自己の存在を明確にしたくそれを「何か」というもので探し始める時です。それは「青臭さ」でなければ表現できないもので、少年から青年に変わるどうしようもなく退屈な毎日のなかでしか語り得ないものなのです。さらにまたその「何か」を上手く云えずにいる自分自身に苛立つ時でもありました。 
 
この『煙草』はそんな時期を見事に描いた作品で、ふといま読み返してみようと思ったのは、もしかしたらまた違った印象をこの作品から得られるのではないかという期待からでした。それは単に青春を振り返るというノスタルジィーではなく、実は未だに消え失せぬ「何か」を追及している私が居ることです。「夢」と置き換えても良いでしょう。果たし得ぬものと諦めきれぬ思いの曖昧さです。何も「名付ける」必要のない事で執着しても仕方ないものかもしれません。
 
「かくして大人になるといふことが私には一つの完成あるひは卒業だとは思へなかつた。少年期は永劫につづくべきものであり、又現につづいてゐるのではないだらうか。それだのに我々はどうしてそれを軽蔑したりすることができよう。」
 
これは主人公「私」の独白ですが、若い三島そのものではないでしょうか。あの頃は何気なく読み進めていましたが、21歳の三島はそれ以降もたえず「少年期」を持ち続けていたのです。「青臭い」というだけで遠うざてしまう大人の多いなか「青臭さ」の源泉を追及し続けていたのではないでしょうか。『煙草』のなかの「私」は『仮面の告白』の「私」であり、そして『豊饒の海』の「松枝清顕」でした。
 
『煙草』の主人公は華族の集まる学校の中等部の生徒で、それはあきらかに学習院だわかります。しかし三島は「華族学校」として留めています。反私小説家としての表現です。しかしここに気になることを記しています。「彼等はあの人たちの子孫なのである。威嚇や暴力を以てでなく強い麻痺力を持つた無為で以て、多くの人を服従させて来た人たちの」とあります。この「あの人たち」とは皇族であり、歴代の天皇を指しています。
 
三島に貴族意識があったとよく言われますが、彼の父は農林省の官僚でしたが華族があつまる学校では異質な存在です。こうした環境のなかで生活し、華族という雅な、それでいて退廃的な体臭を放つ存在に憧れと同時に嫌悪を持っていたに違いありません。すでに古典に親しんでいた彼は雅な世界、言い換えれば天皇の存在をもうすでに心の拠り所としていたことです。しかし三島の父は文学を嫌っていました。輔仁会の同人誌に作品を書いている息子に文学を諦めさせ東大法学部へ行くように命じます。さらに大蔵省の官僚へと期待し彼は見事親の夢を果たします。エリートとしての道を歩き始めましたが、父の厳命が逆に三島をさらに文学へと駆り立てと考えられます。長男としての自覚が父の意向を汲みつつ、それでも文学を捨て切れなかったのは、彼の才能であり、父に対するぎりぎりの反抗があったからしょう。これは並大抵なことではありません。
 
話を作品に戻します。
「私」は校舎の裏にある森で寝転がっている上級生ふたりに遭遇します。彼らは校則で禁じられている喫煙をしていました。「私」に気づいたふたりは煙草を吸えとすすめます。躊躇している「私」に火をつけた煙草を渡します。断わることのできない「私」はそれを吸い、はげしく咳き込みます。むせて涙ぐんでいる「私」をふたりは楽しそうに笑いました。煙草という誘惑。上級生との付き合い。この刺激的な体験は「私」を混乱のなかに突き落とします。そして煙草を渡した「伊村」という上級生に対して「私」は挑戦します。それは暴力ではなく心の葛藤として「伊村」に挑みました。
 
「私の異様な決心も、その決心を促して来た異様な胸苦しさも、さうした期待の下にのみ生れえた筈だつた。しかし更に大きな意味は、ただその答でもつて、私のこれからの生き方をさへ逸速く決定してしまひたいと希ふ不可解な焦躁のなかに、在つたのではなかろうか。そこまでふりかえる気力がもう私にはなかつた。言葉が通じないので最大の悲しみを訴へるために飼主の目をじつとみつめる術しかしらない羊のやうに、私はぼんやりと伊村を見てゐた。・・・・・何もかもいやになつた。」
 
「私」は自分から煙草を求めたのです。そこには「伊村」に対する親しみ、あるいは気をひこうとする意志が働いています。しかしその時の反応は「伊村の色濃く流線をゑがいてゐる眉がこの時少し歪んだやうだつた」と「私」は確かに見たのです。そして「私」は何もかも嫌になってしまいました。この緊張感は友情でしょうか。私にはホモセクシャルな匂いを感じます。
 
煙草という材料でこれほどの物語を作り上げる三島の才能は計りしれません。のちに『喪失』で「中央公論」第3回新人賞をとった福田章二(後の庄司薫)に対してその才能を認めつつも「少年サロン小説」の匂いがちょっと強いと言っています。私はこのとき三島は自分の『煙草』を思い返していたのではないかと想像します。この新たに出現した才能に対して「長すぎるな。短編としてもうすこしまとまっていれば、非常にいい小説だな」と期待しています。私からみれば『煙草』もまた「少年サロン小説」であり、『ドルジェル伯の舞踏会』の系列に入ります。
 
少年から青年に変わる時期を描いた小説は数多くあります。しかし「青春小説」という安意な括りでは入らない作品こそ文学として後世に残るものだと思います。庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』は初めて私が手にした「文学」です。思えば三島が指し示す作品を多く私は読んでいます。「文学」という概念など関知しませんが思考を促進するものを選んでいます。『煙草』はその核のひとつです。様々に誘発して流れを呼び起こすのです。