今年は早くも「賀状」の一部を郵便局に持っていきました。珍しいです(例年はぎりぎり大晦日に投函)。

 というわけでこれで正月まで「仕事」に専念できます。第一は、「学位論文」のリライト、第二は、宮嶋さんに約束した「現代スポーツ労働論」(スポーツに関する「仕事・領域」をある程度網羅したもの)の企画案作成、第三は、松田博さんの遺作となった『「未完の市民社会論」の探求―『獄中』ノートと現代―』あけび書房、2021年、の読破でしょうか。

お約束の「国民体力法の成立過程に関する考察」の後半をコピーして貼り付けます。

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3. 国民体力(管理)法の基本的性格

3-1国民体力管理法の「管理」2字削除の論理

すでにふれたが貴族院の国民体力管理法案特別委員会での「管理」の2字削減をめぐって交わされた議論の発端は、1940(昭和15)年3月4日の貴族院における第2回國民體力管理法案特別委員會での立花種忠委員の「ドウモ管理ト云フ字ダケデハ足リナイノヂヤナイカ」1と言う発言からだったが、吉田茂厚生大臣の答えも紋切型で答えるだけであった。

続いて質問に立った黒田長和委員は「私モ管理ト云フ言葉ハ非常ニ不適當ダト考ヘマス、此ノ内容ヲ伺ッテ見レバ伺ッテ見ル程、此ノ名偁ハ不適當デアルコトガ益々明カニナリマス、ト同時ニ又非常ニ不都合ナ字句デアルト思ヒマス、卽チ、道徳觀念カラ考ヘマシテモ、亦思想問題カラ考ヘマシテモ非常ニ不適當デアル、私ハ好イ時機ニ修正ノ意見ヲ發表シタイ」2と述べた。

政府委員(佐々木芳遠体力局長)は「此ノ管理制ノ狙ヒ處ハ要スルニ從來親權者ニ一任セラレテ居リマシタ未成年者ノ體力向上ト云フコトニ付テ國家ガ或程度迄關輿シテ、サウシテ親權者ノ義務履行ニ協力ヲスル、ソレカラ其ノ仕事ヲコッチデ監督ヲスルト云フヤウナ意味ガアリ(中略)、身體檢査ノ結果色々ト指導ヲスル、ソレカラ指示ヲスル、或ハ處置命令ヲ出ス、サウウシテ相當ノ義務ヲ負擔サセテ其ノ義務ノ履行ヲコチラデ監督ヲスル、ソレカラ若シ其ノ義務ヲ履行シナイ親權者ガアッタ場合、國家ガ代ッテ療養ノ指導ヲシテヤルト云フヤウナコトヲ内容ニ持ツノデアリマシテ、サウ云ッタヤウナ廣汎ナ内容ヲドウ云フ文字デ表ハシタラ宜イカト云フコトヲ色々考ヘタノデスガ、結局管理トイフ言葉ハ、言葉自體ニ取締トカ、監督トカ、司ルト云フヤウナ、支配ト云フヤウナ内容ガアリマスガ、又更ニ保存、改善ト云フヤウナ意味モアルノデアリマシテ、又從來ソレヲ民法デハ使ハレテ居ル、(中略)外ニ適當ナ言葉ガアリマセヌノデ此ノ言葉ヲ使ヒマシタ、サウ云フコトデアルト云フコトヲ御諒承願ヒタイト思ヒマス」3(波線、著者)と答えるだけで最後まで押し切った形で第2回目の委員会を終了した。

逐条審議に入った3月7日(5回目)の特別委員会の始めに黒田長和(ながとし)委員が「チョット伺ヒマスガ、斯フ云フ風ニ物質デナク人間ヲ管理スルト云フウヤウナ言葉ガ使ッテアル例ハゴザイマスカ」4と質問し、同じく山川建委員も「自然人ダケノ問題ニ付テ管理ト云フ言葉ガ使ッテアル前例ガアリマスカドウカ、伺ヒタイ」5と質問した。

しかし政府委員の佐々木芳遠体力局長は「管理ト云フ言葉ハ色々ノ場合ニ使ッテ居リマスガ、サウ云フノハ私マダ分ラナヌノデゴザイマス」6と答えるだけであった。

続く黒田委員の「サウナリマスト、體力ト云フモノヲ物トシテ本人カラ引離シテ體力其ノモノヲ管理スルノダト云フ意味ニナリマスカ」7という質問に政府委員(佐々木芳遠)は「管理ノ對象ハ體力デゴザイマシテ、其ノ體力ト云フモノヲ管理スルノデス」8と答えた。さらに「本法デ目指ス所ヲ網羅スル言葉トシテハ此ノ管理ト云フ言葉ガ最モ適當」9だと答えたが、黒田委員は「ヨク分カリマシタ」10という、一言でこの場ではあっさり引き下がったように見えた。

しかし、黒田委員は2日後の3月9日の特別委員会において修正意見と同時に修正動議を提出した。黒田委員は、質問の途中で数日前の新聞11に掲載されたドイツの中央医師協会からの要請(「獨創的法案の輸出 約束果たす日近し 體力管理を獨に紹介」)を伝える紹介記事に触れながら「本案ハ我が國獨得デアリマシテ(中略)、〔それにもかかわらず〕『ロシア』ニモナイノニ斯カル〔ロシアにあるものに倣ったという〕風説ガ立ッタト云フコトハ、何トナク是ハ日本的デナイ、唯物主義的『イデオロギー』ノ匂ガ聞カレルカラデアラウト思ヒマス、抑ゝ管理ト云フ言葉ハ普通物ニ對シテ用ヒラレル言葉デアリマス(中略)、普通ニハ人間ニハ用ヒナイ言葉デアリマス、ソレデ人間ヲ物ト考ヘルコトニ依リマシテ、随ッテ人格ヲ無視スル結果ト相成リマス(中略)、體力ト云フモノハ本人ノ所有物デアル、併シ其ノ使用ヲ束縛スルモノデアル、所有權ヲ輿ヘテ置イテ、使用權ヲ束縛スルモノデアルト云フヤウナ理屈ニナルノデアリマス、日本精神ニ於キマシテハ國民體力ハ何處迄モ國民個々ノモノデ、體力ハ國民各々ガ其ノ獨特ノ見識ト誇リトヲ以テ國家ニ御盡シスルノ謂ハバ元手デアリマス、皇國軍人ガ潔ク一身ヲ挺シテ戰場ニ奮闘スルノハ、(中略)軍人ハ自ラ養成シタ愛國心ト體力ヲ以テ自發ニ君國ニ一命ヲ捧ゲルノデアルコトハ勿論デアリマス」12(下線は、著者)と述べ、さらに「〔あくまで〕思想問題ノ見地カラ論ジマシテモ、管理ト云フ文字ハ避ケタイ(中略)、國民體力ヲ管理スルト云フヤウナ言葉ハ何トナク唯物思想ヲ思ハシムル」13と述べたが、結局、最後には「私ハ決シテ之ニ固執スルモノデハアリマセヌ、例ヘバ國民體力法案ト云ハレテモ差支ナイ」14と譲歩した。その後は野村委員長の取り計らいで「懇談會」に切り替えて懇談した後散會した。

  黒田委員の「発言」の背景には学習院高等科を卒業後、東京帝国大学法科大学入学の後に英国・ケンブリッジ大学に留学した経験15からこのような「身体の所有権と使用権」という法律的知識・教養を有していたと思われる。この「発言」の直後に「国民各々がその独特の見識と誇りとをもって国家に尽くす」こと、すなわち「軍人は自ら養成した愛国心と体力をもって自発(ママ)に君国に一命を捧げる」という「日本精神」を持ち出すことによってよりいっそう国民の「自発性」が強化されたのではないか。したがってここで鍵となるのはあくまで「日本精神」であり、結果的に長田の「人格と身体の統一」の止揚は「日本精神」による意識的な超越を意味しており、ある意味では「すりかえ」ともいえる。

しかし「国民体力を管理する」という「言葉」が「何となく唯物思想」を思わしめるという発想自体が総力戦体制下とは言え、鋭い「指摘」であったことはまちがいない。だから本委員会でのこれ以上の議論継続が政府をさらに追い込むことになるのを避けるために委員長は議論を中止し、あえて「懇談会」という非公式の議論の場に野村委員長は切り替えたのではないか。

  結論は、「第一條ノ二項トシテ」「前項ノ管理トハ國民體力ヲ檢査シ體力向上ノ指導其ノ他必要アル處置ヲ爲スヲ謂フ」という文字を挿入するという「修正提議」によって「修正可決」をしたのであった16

  要するに「管理」という2字は「唯物的」なので人の體力を扱うにはふさわしくないから削除した。しかし法案の標題から〔管理の2字を〕外しても条文の中に存続するのは「矛盾」なのだが、結局、第一條の2項に「管理」の説明文を付すことで妥協が成立したことになる。

 

3-2 国民体力法における「体力検査」項目

国民体力法における「体力検査」の項目は、国民体力法施行規則第23条、および第30条に規定されている。しかし、具体的には第35条にある様式第一号に記載されている「検査票」の中の「身長」以下、最後の「概評」「指導」「備考」欄まで(図-1、参照)書き込んで「体力検査」は終了する。

それを見ると、「運動機能」の欄には「荷重速行 回 /4」が記入されるようになっている。次頁の「表-1準備調査における検査項目の比較」で見るように徴兵検査にこれはなく、「荷重速行」を除いてはほぼ同じである(ただし徴兵検査では遺伝及既往症の書き込み、血圧、脈拍測定、尿検査、反射機能など、よりくわしく検査する)17

したがって「国民体力法」でいうところの「体力検査」を見る限り、運動機能(荷重速行)を除いては「学校身体検査」「陸軍身体検査」と変わらないことになる。そうなると運動機能を測定するために「荷重速行」が一つ付加された「身体検査」と言ってもさしつかえない。

        表-1 準備調査における検査項目の比較

検査項目

昭和13年

昭 和1 4 年 度

備 考

千葉県

各道府県

六大都市

身長

 ○

 ○

 ○

* ◎ ●

体重

 ○

 ○

 ○

* ◎ ●

胸囲

 ○

 ○

 ○

* ◎ ●

座高

 ○

 

 

  ◎

上髆囲

 

 

 

 

体型

 

 

 

 

肺活量

 

 

 

 

視力

 ○

 ○

 ○

* ◎ ●

色神

 ○

 

 

*  ◎ ●

聴力

 ○

 ○

 ○

* ◎ ●

握力

○(12、16年のみ)

 

 

 

 

全身作業計

○(19年)

 

 

 

 

疾走

○(12年、男100m、女60m)

 

 

 

 

連続片足跳

○(16年)

 ○

 

 

 

三回跳

○(19年)

 ○

 

 

 

臂立伏臥臂屈伸

 

 ○

 

 

 

運搬・荷重速行

 

 

 ○

智能検査

○12歳

 ○5歳

 

 

 

疾病異常

 ○

 ○

 ○

* ◎ ●

ツベルクリン反応

 ○

 ○

 ○

* ◎ ●

トラホーム

 ○

 ○

 ○

* ◎ ●

寄生虫卵検査

8、12歳

尋常5年

尋常3年

 

 

概評

 

 ○

 ○

 ○

* ◎ ●

 〇は準備調査で実施したもの(ただし、幼児対象のものは省く)。また、備考欄の*は後の国民体力法において実施したもの、◎は昭和12年1月の「学校身体検査規定」によるが、これには栄養、脊柱、胸廓、鼻及咽喉、皮膚、歯牙が加わる。●は徴兵検査における身体検査の項目であるが、鼻腔、口腔、咽喉、言語・精神・一般構造及び各部の検査、関節運動が入る。

古屋芳雄『体力管理と体力検査』(保健衛生協会、昭和16年)、文部省監修『学校保健百年史』(第一法規出版、昭和48年)、陸軍省編『陸軍身体検査規則』(昭和18年)、百瀬孝『事典昭和戦前期の日本』(吉川弘文館、1990年)より作成。

 

(補注)当初、「運搬」の名称で昭和14年度準備検査で千葉県を除く各道府県での準備調査で行った(青年男子のみ)。同じ年「六大都市体力検査」では「運搬」と称して荷重物を担ぎ(女子は抱いて)周回線を30秒間周回し、廻った回数で成績を示した(「昭和十四年度 国民体力管理制度準備調査 六大都市体力検査成績」厚生省体力局、61頁に周回線を説明した図がある)。さらに1939(昭和14)年7月3日「國民體力管理制度調査会専門委員付託事項調査結果報告書」(13~17頁)では、第1分科会の報告で「第二 運動機能測定 運動機能測定ハ一種目トシ「荷重速行」ヲ施行スルコト。」と表現していた。しかし1939(昭和14)年7月6日の『國民體力管理制度調査会第三回会議録』(60頁)では「國民體力管理制度調査会専門委員付託事項調査結果」として「一 體力検査項目ニ関スル件 (二)運動機能測定 運搬」と記述している。したがって「運搬」も「荷重速行」も内容的には同じとみてよい(ただし、年令・男女によって荷重物の重量や大きさは少しずつ異なる)。最終的には「国民体力法施行規則」(厚生省令第36号)「第46条 体力手帳は様式第三号に依る」と規定し、様式第三号「体力検査票」には体力手帳の記入欄に1行「運動機能 荷重速行 回 /4」(昭和15年9月26日 官報第4118号872頁)で確認できる(図-1)。

 

   国民体力法の宣伝映画「體力は國のちから」から「荷重速行」の様子(男子は担ぐ)

   

 

図-1 体力検査票(国民体力法施行規則第35条に規定された様式第一号)

運動機能検査項目に荷重速行(時に運搬)だけがなぜ導入されたのか。

 時系列で追っていくと、1938(昭和13)年度の「国民体力管理制度準備調査」では「運動機能測定」には項目としてあげられているのは「筋力、持久力、協調能力、循環適応能力」であり、それを「全身作業計使用、握力計使用」、後は「連続片脚跳、疾走(男100メートル、女60メートル)、三回跳」であった。ただし全身作業計使用と三回跳は一九年(19歳)だけで「握力」と「疾走」は一二年(12歳)だけ、一六年(16歳)は「握力」と「連続片脚」だけであった。

 翌1939(昭和14)年度の「国民体力管理制度準備調査」(千葉県を除く各府県及六大都市)で初めて「荷重速行(運搬)」が導入された18。 

 

図-2「荷重速行」(運搬)の周回コース

  出典:厚生省體力局『昭和十四年度 国民體力管理制度調査 六大都市體力檢査成績』昭和15年6月、61頁。

 

  当時、「国民体力」に関する調査研究は、労働科学研究所でも行われたし、体育研究所でも厚生省の委託19を受けて行われていた。学術振興会第十一特別委員会体力部でも検討された。

  さてこのような準備段階での予備調査の結果を受けながら国民体力管理制度調査会(以下、調査会」と略)では「体力検査」項目の運動機能の測定方法をどのように決めていったかを確認したい。ここで問題なのは専門委員会に付託された「報告」が『國民體力管理制度調査會會議議事錄』と、それとは別に「國民體力管理制度調査會専門委員付託事項調査結果報告書」(昭和14年7月3日付、国立国会図書館蔵デジタルコレクション、以下、「報告書」と略)の2種類があるが、両者には微妙なちがいがあることである。

  先ず国民体力制度調査会第3回会議「議事録」によると、「専門委員会分科所属」によって五つの分科会とその所属委員名が記録されている20

  運動機能の検査項目を検討したのは第一分科会(形態並に運動機能)である。主査は東龍太郎(東大医学部)、委員には鎌田調(軍医大佐)、岩原拓(文部省体育課長)、福田邦三(東大医学部)、野口源三郎(東京高師)、暉峻義等(日本労働科学研究所)、小松光彦(陸軍)、竹内茂代(女医)、藤村トヨ(東京女子体操学校)であった。

運動機能の検査に「運搬(時に荷重速行)」に決めるまでに、100メートル疾走と心肺係数を検査項目としてはどうか、又男子に対しては1000メートル走(「報告書」には記述無し)、立幅跳、臂立伏臥屈伸、連続片脚跳等を、女子に対しては腹筋力を見るために仰臥位から上体を起す運動を試みてはどうか等である。結局、「荷重速行」に決まるが、其の方法は所定の重量(「報告書」は荷重物の重量は17歳以上の男子には30キロ、女子には15キロ)を担ぎ、女子は抱いて一周20メートル弱の走路(「報告書」には記載なし」)を30秒間速行させてその回数をもって成績とすること(「報告書」では速行距離を測定すること)にした。その後、「結局運動機能は実施上の点から可成各年齢共通の種目とし、又単一の種目で可成総合的体力を測定するという建前で『荷重速行』(「議事録報告」では「運搬」)を施行することとなった」21

 

  小泉は国民体力法が公布された直後の1940(昭和15)年6月19日に公衆衛生院において公衆衛生技術官となる学生を対象にした「特別講義」で「私共はその豫備試驗として體重に等しき重量を背負って平坦の道を歩行して、此の先モウ一歩も脚が出ないという所まで歩かせる方法を檢したのでありますが、從來の檢査方法の成績が同一の人達でも、此の歩行距離に長短非常なる相違のあることを發見するのであります。然しながらこの方法が果して、體力を正しく測定する方法なりや否やは未決の問題」22だと話した。

 小泉が想定した「戦場で求められる体力」であるが、「其の檢査方法がはっきりしない現状であります。では檢査せずに放つて置くかといふと、そんな悠暢な秋ではない」「殊に今日の帝國は有ゆる方面に於て、無駄を廢し節約を徹底して長期戰への國力を整へて置かなければならない秋であります。徒らに何縣に何病が多いとか身長體重が如何であるとか云ふことの統計表を拵える為に、多数の人力や國帑を費すやうな呑気な時ではありませぬ。人と金とを使つたらならば、檢査の結果は必ず活かす―長期戰に資すると言ふ所に著意して公衆衞生を指導して行かなければならないのであります。檢査の結果が活かせるならば、被檢者一人に何十圓何百圓かヽつても無駄ではない」23

  ここには「長期戦」を十分に予測しての小泉の「国民体力管理」の意図がはっきりと出ているが、ではなぜ、「運搬(荷重速行)」なのかはまだ十分には明らかではない。この点に関して政治思想史の鹿野政直教授は、著書の中ではっきりと「持久力」というのは「もっと端的には『行軍力』を意味している」24と書いていた。さらに国民体力管理制度策定の当事者の一人であった古屋芳雄は体力管理制度の準備段階でのデータを見ながら、当時(1941年)「『一定の重量を身につけて速やかに歩行する』能力(これは軍隊が要求する欠くべからざる条件である)」25(波線、著者)と、わざわざ括弧をつけて説明していた。ここからも「荷重速行」の戦時体制下に持っていた性格、すなわち日本軍隊特別の要求であったことが理解できる。

戦前に軍医学校で小泉親彦の直接指導の下で「軍陣衛生」を研究していた石川元雄が戦後著わした「軍陣衛生」に「総合的体力検査方法の研究」のために「昭和12年3月以降静岡県小笠郡新野村を被検村に選定して、学令以上の男女について、多年軍隊で実施してきた各種の体力検査方法を逐次実施して」研究を重ねた。「その結果遂に、体重の2倍量を負荷した運搬力検査、更にこれに速度の因子を加えた負担早駈法が総合体力検査方法として最も簡便適切であるとの結論に達した」26と書いているが、「荷重速行」に至る経過を陸軍軍医学校でもかなりの実験・研究を行っていたことを示していると言えよう。

小泉が中国における戦場のきびしさを彼なりの表現で次のように表現している。

「今次事變に於て皇軍の將兵は普通の生活觀念から見ては、人間の通行することの出來ない山岳地帶、森林地帶を超え、寝ることの出来ない瘴癘の沼澤地に起居すると云ふやうなことを敢てして居るのであります。從って糧を敵に求めて進まざるを得ないという風に、有ゆる環境的悪影響を克服して征くのでありますが、人間の生活機能には限りがある。其の限界を超えて進撃する結果、體工合も頭工合も變つて來るのは當然であります。そこへ持って來て敵に求むる糧は極めて不十分であるから體工合が一層變ってまいります。」27

 この「特別講義」は1940(昭和15)年6月19日に行われたが、藤原彰が書いているようにこの頃にはすでに日本陸軍は戦意喪失状態にあり、かつ日中戦争が始まって1941年までに陸軍だけでもおよそ30万人の死者を出していた28.。加えてこうした傾向は全面的な日中戦争への突入の中での新たな「長期戦」「持久戦」段階でより鮮明になっていった。しかしそれは1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃にはじまる太平洋戦争との関連で見れば以下の資料に示されるように余りにも矛盾に満ちたものであった。

太平洋戦争開戦の翌42年1月20日付で陸軍省兵備課がすでに『大東亜戦争ニ伴フ我カ人的国力ノ検討』25では1941(昭和16)年の兵力約250万に対して42年には350万(内海軍約30万)を数えており、「昭和十六年末ニ於ケル兵員ヲ全然交代セシムルコトナク昭和十六年徴集兵ヲ補充兵ヲモ擧ゲテ之ニ(右横に括弧して五十万の書き込み)注入シ尚且數十万(同じく五十万の書き込み)ノ在郷者ヲ召集セサルヘカラス從テ昭和十三年徴集現役兵ノ如キハ極メテ一部ヲ除クノ外連續服務スルハ當然ノコト」29であった。武漢・広東作戦後、「持久戦」は「伸びきってその限界に達した」日本軍の状況に対し、「持久戦に転移」させるために新たに戦争指導方針・作戦を策定せざるを得ないばかりか、約250~350万の兵力を動員余儀なくされていく状況では「從テ同時ニ急速ナル生産ノ向上ヲ要求セラレタル各産業ニ於テハ益々勞力ノ不足」を来たし、それは「工業要員ノ增加ハ女子特ニ少年ニ依存スルモノナルコトヲ知リ得ヘシ」30状況となっていた。

 

3-3 身体の私事性・親権への国家の介入

  国民体力法第4条には「被管理者」が国民体力法による年令に達した場合には体力検査を受けることが定められている。法的には「義務」であり、親権者たる保護者にも「被管理者をして体力検査を受けしむる義務」を負うことが規定されている。加えて第12条では、「体力検査」の結果、「療養に関する指導」を受け、「処置命令」を受けた場合には「被管理者」だけでなく保護者にも「処置命令」を命ずることができる。その「処置命令」に違反した場合には第16条により「科料」に処せられる(いわゆる罰則規定)。

 こうした基本的な考え方は「国民体力管理制度案要綱」を提示した時から決まっていた。貴族院の審議の際にも「管理」の2字削除をめぐってのやりとりのなかの佐々木芳遠体力局長の答弁でも「此の管理制の狙い処は要するに従来親権者に一任せられて居りました未成年者の体力向上と言うことに付て国家が或程度迄関与して、そうして親権者の義務履行に協力をする、それから其の仕事をこっちで監督をする」ことであり、処置命令を出して相当の負担をさせてその義務の履行をこちらで監督するのが「管理」という言葉で表わしたのだという。しかもここでも「我が国の家族制度の精神に従い」おこなうという。後に厚生省事務官だった財津吉文は『国民体力法解義』で「本制度案要綱に於て注目すべき点は、本制度の基礎を我国古来の美風たる家族制度に置いたことである」31と称賛した。しかも同書のなかで教育制度と比較して「一方の監護義務に就ては、単に民法に於て抽象的に規定している」にとどまり、「監護の内容に関しては、全く親権者個人の自由に委ねられている」のに対して、国民体力法は「或る程度公法上の義務として強制履行せしめよう」という表現の中に国民体力法の本質が示されていると言えよう。

 

3-4 国民体力(管理)法が日本独特という時のイデオロギー性とその問題点

国民体力法が日本独特という最初の言及は、『週報』(1938年7月)の厚生省體力局「國民體力管理制度」であろう。「趣旨」「檢査年齢」「檢査項目」を解説した文章の末尾に「國民體力管理制度は歐米諸國にも未だその例をみない畫期的方策である」32と付記している。次いで1938(昭和13)年12月の第1回の国民体力管理制度調査会における冒頭の児玉政介体力局長による国民体力制度についての「諮問事項」説明の際に「斯ノ如キ制度ハ諸外國ニモ未ダ其ノ類例ガナイヤウニ承知シテオリマス」と述べ、最後にも「此ノ制度ハ前ニモ申シマシタ通リ全ク新シイ企テデアリマス」33と念を押した。彼は財團法人啓明會第八十三囘講演で「國民體位の趨勢と其の對策」のテーマの下に随所に諸外国の状況なども取り入れていたが、それはドイツ、イタリア、フランス、イギリス、ソ連、チェコスロバキア、デンマークなどの国々にも及び、その博識ぶりを披露した。「英吉利に於きましてフイジカル・トレーニング・アンド・リクリエーション・アクト、體育及休養法とでも謂ふのでありませうが、さう云ふ法律が制定せられた」34と語ったが、どれだけ理解していたかは別である。 

  いずれにしても「何が独特なのか」なのか、共通しているのは「國家が國民の體力を管理する」ことであり、そのことを諸外国の状況にもくわしい児玉政介自身が「之れ(国民体力制度)は國民各個人の體力檢査を實施して之に應じてそれぞれ各人別に適切なる指導を行ふと共に保健國策の樹立に資せんとするものであります。之れこそ體力向上の國民的義務化」であり、「國民保健の國家的意義、體力向上の義務觀念と云ふものは、充分に國民の脳裡に収めて貰ひ度い(中略)國民の體力を向上すると云ふことは、單に個人の幸福を招來すると云ふ様な個人主義的な考へ方だけではない。もっと高度な政治的と云ふか或は精神的」「國民としての気力を高める、國民精神、國家意識、民族意識を昂揚する點に力を注いで」、最後は「日本傳統の體育思想」へと向かう。すなわち、「古來歐米の利己主義的な考へ方と大變に違つて家族一體、君民一體の思想を以て進んで來た。君の爲に親の爲に夫の爲に、・・・・」結論は「而して國民皆兵の今日に於きまして國民が齊しく身心を鍛錬して奉公の誠を盡さなければならぬのでありまして、國家主義の體育思想は我が國の傳統であります」35

こういう議論になれば貴族院での黒田議員の「國家ガ立入ッテ管理シテ改善シテ、サウシテ國家ノ用ニ當テルト云フ方策ヲ考ヘラレタノガ此ノ法案トナッタデアラウト存ジマス、此ノ考ヘ方ハ全體主義國家ニハピッタリ合フ」36とか、「日本國民ノ體力ノ基本ト云フ精神、病ヲ克服スル精神ノ基本原理ハ、日本特有ノ日本精神ヲ基本トスル方ガ最モ宜シイ」「日本精神トハ大和魂デアル、大和魂ハ忠孝ノ二字」「日本國體ヲ擁護スル精神ハ日本精神デアル」という高見之通議員の一連の「発言」37はその典型であろう。

 

こうした「日本精神」批判は、当時にあっても戸坂潤がすでに次のように批判していた。「少くとも今までに判ったことは、何が日本精神であるかということではなくて、日本精神主義なるものが、如何に理論的実質に於て空疎で雑然としたものであるかということである。で日本精神という問題も日本精神主義という形のものからは殆ど何の解答を与えられそうもないということが判ったのである。(中略)日本精神主義哲学から云っても、又日本農本主義哲学から云っても、日本の特質は、それが他の国家乃至民族に較べて、勝れて精神的だという処にあるということになるらしい。凡ての日本主義が、恐らくこの日本精神主義に一応は帰着せしめられることが出来るだろう。だがそれにも拘わらず、日本精神(之が日本の本質な筈だったが)が何であるかは、合理的に科学的に、遂に説明されていない。それはその筈で、元来日本精神なるものは、或いは『日本』なるもの自身さえが、日本主義にとっては、説明されるべき対象ではなくて、却って夫によって何かを相当勝手に説明するための、方法乃至原理(’’)に他ならないからである。(中略)だが日本主義は内容もないと考えられると同時に、それと反対にどんな内容でも勝手にそれに押し込むことも出来る」38ものであった。国民体力法の成立過程で語られた「日本的な家族制度」「日本精神」の謳歌・讃美の大合唱は戸坂の「空疎で雑然とした」日本精神主義そのものであり、「どんな内容でも勝手にそれに押し込むことができる」「内容に這入って見ると殆ど全くガラクタで充ちているのである」が、しかしそれを「暴露するのは、吾々にとって、極めてツマラない併し又極めて重大な義務」39なのであろう。

 

3-5 終わりに

結論として、厚生省体力局長佐々木芳遠が1940(昭和15)年10月に秋田市で開催された第30回関東北医師大会における「特別講演要旨」40がこの国民体力法の基本的性格をほぼまとめていると思われる。講演の冒頭で佐々木局長は「之(國民體力法)は世界に類例のない制度」であり、「何でも統制好みの独逸でさへも未だ斯う云ふ種類の制度は樹てられて居らぬものであります」と述べて、ナチのヒットラーユーゲントにはもし個人が欲すれば「斯う云ふ制度があるのでありますが、併しながら黨なり國なりが之を強制してやることはないのであります」と、「ヒットラー顔負けするような管理制度であることを強調」41した。その後で「國民體力法の問題」として「(国民体力向上ということは)大體各自々由放任の状態にあった(中略)、所謂自分の軀は自分のものである、從つて之を向上させやうが、放置して置かうが、自分勝手であると云ふやうな具合になって居ったのであります。所が今度は其の考へ方は間違って居る各人の此の軀は自分の軀であると同時に、國家の軀であると云ふ考へ方でなければならぬのであります。從ひまして此の軀を個人々々銘々勝手気儘にさせるということは許されぬのであります。(中略)そこで從來放任されて居りました軀を、殊に未成年者でございましたらならば、親權者に自由に委せて居つたのでありますが、それを今度は國家と保護者と協力して未成年者の軀を世話をしなければならぬ」というのである。

まさに「自分の体は自分のものであって自分のものではない」。すなわち、「一人一人の身体は、すでに個人のものではなく国家のものであり、したがって自分勝手なことをせぬよう国家が管理していく」という、国民体力(管理)法の基本的性格を言い当てている。さらに付け加えればまさに山之内靖が指摘するように「総力戦の時代は社会の仕組みに巨大な変化をもたらした。(中略)政治的な公共性がその独自な領域性を失って市民社会および家族のレヴェルと溶融したこと、その結果として家族生活に属している私事〔この場合は「身体の私事性」〕が大幅に公的性格を帯びるようになったこと、これである。消費生活は、労働主体の社会的再生産を通して人的資源を戦争目的へと動員するための基礎だと認識されるようになり、(中略)総力戦体制が国民の体育〔この場合は国民体力〕を重視し、国民保健政策の整備を不可欠のものと認識するようになった」42といえよう。

これは美馬達哉が「総力戦体制の下では、私的な健康は国家の人的資源という公的問題と直接的に結び付くこととなった。つまり、健康であることは公的義務となり、それは国家が積極的に介入すべき領域に変容したのである」43という指摘は、総力戦体制下の「国民体力法」の基本的な性格を言い当てた表現であると同時に現代史の「盲点」ではなかったかと筆者には思えるのである。

 

まとめ

序章で提起した「問題の所在」の第一は、「自分の体は自分のものであって自分のものではない」ことはほぼ全体を通して問いかけてきた課題であった。とくに第5章(第3節 身体の私事性・親権への国家の介入)の最後に引用したが、「天皇のみが唯一絶対の家長となり、個々の家における家長の権威は失われ、親権という観念さえ一顧だにされなくなった」44(平田厚)という戦時体制下、まさしく国家総動員体制の中ではどんなに一家の大事な働き手であっても「赤紙」一枚で戦場に狩り出されていく時代であればそれに抗することは非常にむずかしく、もしそれを忌避すると非国民よばわりされ、特高警察に引っ張られていく時代がなぜ、どうして日本中を襲ったのか、そのことを抜きにはしては考えられないことである。

 「問題の所在」の二番目の課題は、日本における戦時体制下の体力政策がいかに確立されたか、それは新省創設(厚生省)にいかにつながったか、同時にそれは国家と国民との関わりを「体力管理」を通して見ていくことであった。第1章 国民の体位向上問題と厚生省の創設 で明らかにしたように「壮丁の体位低下」問題を「壮丁平均身長・体重表」(陸軍省)により平均値の年次推移の変遷がわかる統計が陸軍省にありながら、それをあえて無視して「徴兵検査の不合格者数」の増減による「壮丁の体位低下=国民の体位低下」であるように歪めてキャンペーンを張り、厚生省創設の原動力にしていったのは小泉親彦の力が大いに働いた。

 同じく第三の課題は、「国民体力管理制度」登場の歴史的背景であるが、総力戦体制下の「国民体力管理制度」の策定過程は、国民体力管理制度調査会での審議過程、専門委員付託事項調査の「報告」等から「体力検査」の測定項目に運動機能測定だけがなぜ「荷重速行」(運搬)が導入されたか、それは長引く日中15年戦争における日本軍の「自給自足・食糧の現地調達」主義から持久力(行軍力)の必要から要請されたものであることを明らかにした。

 

本研究は、戦時体制下の「国民体力(管理)法」の成立過程の研究であるが、戦前戦後を通じて「国民体力」と名のつく法制度はこの「国民体力法」だけである。1937(昭和12)年7月、イギリスで「身体訓練・レクリエーション法(Physical Training and Recreation Act)」45が公布されたが、それはあくまで国民およびスポーツ団体の自主性を尊重する法制度であり、スポーツ施設の整備充実、国民の福祉に重点があった。しかしボーイスカウト・少年隊・教会少年隊などの軍事訓練を重視する青少年組織への支援も含まれていたのでまったく軍部とは無関係であったわけではない。また国民体力法の審議最中にも十分に世界的な状況、とくにドイツのヒットラーユーゲント、イタリアのバリッラ、ソ連のGTO(スポーツバッジテスト)などの紹介とともにイギリスの例も紹介されていた(財津吉文『国民体力法解義』昭和13年)。それだけでなく朝日新聞などの一連の「国民体位向上」キャンペーン記事を通じて国際的な潮流も知り得たわけであるが、それらを参考にしたはずであるのに最終的には日本精神の高揚で「国民体位・体力向上」を成し遂げようとしたところに総力戦体制下の日本の姿が映し出されていたのではないか。

 

 

 

注)

(1) 『國民體力管理法案特別委員會議事速記錄第二號』(昭和15年3月4日)9頁。

(2)  同上、10頁。

(3)  同上、10頁。

(4) 『國民體力管理法案特別委員會議事速記錄第五號』(昭和15年3月7日)2頁。

(5)  同上、2頁。

(6)  同上、2頁。

(7)  同上、2頁。

(8)  同上、2頁。  

(9)  同上、2頁。

(10) 同上、2頁。

(11) 東京朝日新聞、1940年3月1日付。

(12)『國民體力管理法案特別委員會議事速記錄第六號』(昭和15年3月9日)5頁。

(13)  同上、5頁。

(14)  同上、6頁。

(15) 黒田長和(くろだ ながとし)については人事興信所『人事興信録第8版』1928(昭和3)年、ク76頁(国立国会図書館デジタルコレクションを利用)によると、「明治37年学習院高等科を卒業して東京帝国大学法科大学に学び堂9年渡英して剣橋大学に入る」とある。

(16)『國民體力管理法案特別委員會議事速記錄第七號』(昭和15年3月13日)2頁。

(17) 陸軍省編『陸軍身體檢査規則』1943(昭和18)年5月7日改正版による。13~20頁にある付録第一、二、三を参照。

(18) 厚生省體力局『昭和十四年度 國民體力管理制度準備調査 六大都市體力檢査成績』1940(昭和15)年6月、61頁には図入りで解説がある。これを見ると明らかに「荷重速行」である。

(19) 古屋芳遠『體力管理と體力檢査』保健衛生協会、1941年5月、73~78頁。

(20) 國民體力管理制度調査會『國民體力管理制度調査會第三回會議議事錄』1939年、64~65頁。

(21) 厚生省『國民體力管理制度調査會専門委員付託事項調査結果報告書』1939年(国立国会図書館所蔵マイクロフイルム)、16頁。

(22) 小泉親彦「公衆衞生に就て」『軍醫團雑誌』第329号、1940年、1241~1242頁。

(23) 同上、1244頁。

(24) 鹿野政直『鹿野政直思想史論集第5巻』岩波書店、2008年、51頁。これは実は鹿野教授の書かれた『健康観にみる近代』(朝日新聞、2001年)の叙述の一部の誤りを指摘した私への私信に対してていちょうなお手紙をもらったその文章の中に一点、私が城丸を援用しながら書いていた「運搬(持久力)」について「わたしはもっと端的に行軍を念頭においていた」と書いて来られた。その上に再録された際にわざわざ「追記」までつけられて私の論文を引用していただき、『鹿野政直思想史論集第5巻』を恵送していただいた。

(25) 古屋芳遠『體力管理と體力檢査』保健衛生協会、1941年5月、71頁。

(26) 石川元雄「軍陣衛生」『大東亜戦争陸軍衛生史Ⅰ』巻8(陸上自衛隊衛生学校編、1969年)、1~2頁。なお彼自身の戦後の著作『衞生學槪説(日本衞生學の再檢討)』(醫學書院、1950年)168~174頁にくわしい叙述があるが、「運搬力検査は1つの測度として可成り重要な價値を有すると信ずる」「唯この測定に極めて長時間を要することのあるのが1つの難點」で「この問題の解決を圖つた」のが「負擔早駈」であると書いている(同書、172頁)。

(27) 小泉親彦、前掲「公衆衞生に就て」、1232頁。

(28) 藤原彰『昭和の歴史 第5巻 日中全面戦争』小学館、1982年、13頁。

(29) 陸軍省兵備課「大東亜戦争ニ伴フ我カ人的国力ノ検討」1942(昭和17)年1月20日、高崎隆治編著『十五年戦争極秘資料集 第一集 大東亜戦争ニ伴フ我カ人的国力ノ検討』不二出版、1987年、参照。

(31) 財津吉文『國民體力法解義』良書普及會、昭和15年、14頁。

(32) 厚生省體力局「國民體力管理制度」『週報』第92号、1938(昭和13)年7月10日、23頁。

(33) 『国民体力制度調査會第一回會議議事錄』1938(昭和13)年12月19日、7~8頁。

(34) 財團法人啓明會『第八十三回講演集 國民體位の趨勢と其の對策』1938(昭和13)年7月22日発行、9頁。なおこの「講演集」そのものはその後に出版された日本體操聯盟編、児玉政介先生述『時局と國民體力』(目黒書店、1939年)に収録されている。イギリスの「身体訓練・レクリェーション法(Physical Training and Recreation Act , は児玉政介が述べているように1937年7月に制定された。くわしくは青沼裕之「1930年代後半におけるイギリス社会体育政策―『身体訓練・レクリエーション法』(1937年)を手がかりに―」『体育史研究』第6号(1989年)及び同「1937~1939年のイギリスにおける身体訓練・レクリエーション政策の展開―國民體力向上協議会(N.F.C.)の施策を中心に―」『スポーツ史研究』第7号(1994年)参照。残念ながら児玉は自らの講演でも「一番國柄の民主主義でありますら英吉利であるとか佛蘭西であるとか云ふやうな國は、全く自治的に而も體育の民衆化と云ふうことに努力を致している」(同、34頁)と述べながら、知識としては認識していても実際にはイギリスの「身体訓練・レクリエーション法」がもっていた国民やスポーツ団体の自主性・自発性や「地方分権」による自治体の主体性の尊重という、日本とは異なる体制の基本的な優位性を理解しようとは思わなかったし、また当時の思想状況では厚生官僚といえども理解できなかったであろう。

(35) 児玉政介『時局と國民體力』目黒書店、1939(昭和14)年、238~346頁。

(36) 『第七十五囘帝國議會貴族院 國民體力管理法案特別委員會議事速記錄第六號』5頁。

(37) 『官報號外 昭和十五年三月二十一日 衆議院議事速記錄第三十號 國民體力管理法案 第一読會』』708頁。

(38) 戸坂潤「ニッポン・イデオロギー」『日本イデオロギー論』岩波文庫、1977年増補版、古在由重の「解説」によるとこれは1935年に書かれている。141~147頁。

(39) 同上、133頁。

(40) 佐々木芳遠「國民體力法に就て」『日本醫學及健康保險』第3206号(昭和15年10月26日)から4回連載、3207号(11月2日),3208号(11月9日),3209号(11月16日)まで。

(41) 野村拓『医療と国民生活』青木書店、1981年、82頁。

(42) 山之内靖『総力戦体制』ちくま学芸文庫、2015年、161頁。

(43)  美馬達哉「身体のテクノロジーとリスク管理」山之内靖・酒井直樹編『総力戦体制からグローバリゼーション』平凡社、2003年、184頁。

(44) 平田厚「わが国における親権概念の成立と変遷」『明治大学法科大学論集』第4号、2008年、195頁。

(45) くわしくは青沼裕之「1930年代後半におけるイギリス社会体育政策―『身体訓練・レクリエーション法』(1937年)を手がかりに―」『体育史研究』第6号(1989年)及び同「1937~1939年のイギリスにおける身体訓練・レクリエーション政策の展開ー国民体力向上協議会(N..F。C..)の施策を中心に―」『スポーツ史研究』第7号(1994年)参照。