2017年8月22日、祖母の葬儀・その1。 | 滋賀・高島の機屋・サダ杉岡のブログ

滋賀・高島の機屋・サダ杉岡のブログ

滋賀の高島という地域で機屋をしている今年53歳の男のブログです。
仕事のこと・家族のこと・日々の日常で感じたことなどを綴っております。
大したことは書いておりませんが、それでもよろしければご覧ください。

ここしばらく、ブログをお休みさせていただいておりました。


長い間患っていたわたしの実祖母が8月19日の早朝に帰らぬ人となりました。





その通夜、葬儀などの関連であまりにもするべきことがあり、また祖母のためにしたいと思うこともあり、その環境下での「ブログ」の優先順位を考慮した上でのことでございます。


こんなブログでも、お楽しみいただいている方々にはすみませんでした。



さて


祖母が亡くなった場所は病院で、今月5日の土曜日から入院していた市内の病院で、直接の死因は心不全、ということでした。


97才の高齢になる中で、ここ数年は入院や退院は繰り返しだったものの、その度に家に戻りたい、お腹がすいた何か食べたい、というような「生きる気力」をもとにしてその都度生還して、我が家のなかでは「不死鳥」と言われていた祖母でした。


また


入院した翌日にわたしが半日祖母に付き添った際にも、身体を拭いていただいた方にも「キレイな肌をしてらっしゃる、まさか97才だとは思えない」ということをおっしゃっていただけるような祖母でした。


わたしと姉・弟の兄弟の小さい頃は、機屋という商売柄、その生業のため、父母が夢中になって工場で機織りをしている間、食事の世話や日頃の世話をしてくれる、文字通り親代わりの存在だったように思えます。


会社の創業者だった祖父が42~43年前に亡くなって以来、長きにおいて未亡人だった祖母は、わたしにとってはよき理解者でした。


嘘のように


本当に優しい、その言葉で表すことが適当と思われる人でした。


わたしたちきょうだいが幼少の頃の運動会などのお弁当タイムの際、よその家庭のサンドイッチを三人が三人とも眺めていて羨ましそうな顔をしていたことを母親に進言してくれて

「つくってやりたいけど、わたしにはつくれないからつくってやって」


と要望してくれたり


当時はまだ週休二日制でなく、半ドンと言われた頃の土曜日のお昼には、オムライスや卵の炒りつけなどをつくってくれたり


とにかくわたしたちの面倒をみてくれた、本当に優しい、優しい祖母でした。


その祖母が亡くなった19日の朝、わたしはロータリークラブの交換留学生の見送りのため、そして受け入れのため、関西空港に向かっておりました。


ヨメからの一報が入ったのは、京田辺の辺りを通過している頃でした。


実はその前々日ほどに家族で話し合いをした際


「今度もおばあさんは帰ってくるから、用意をしておこう」


と家族で決め、言葉は悪いですが「長期戦」を覚悟していたので、かなり油断をしていたその矢先のことでした。


驚いたわたしは、それでも気を取り直し、高島ロータリークラブから派遣する岸田さんを見送り、そのかわり受け入れ生のワネスくんを出迎えることを諦め、9時過ぎのはるか号で、京都駅まで戻りました。





身近な身内を失う、という経験が乏しいわたしは、ひょっとしたらお祖母さんを見送っても何も思えないのではないか、と考えていました。


淡々と見送ることしか出来ない、冷たい孫なのではなかろうか、と来るべき「その時」を想像したりしていました。



実際は・・


車窓から見える風景をみても色を感じない、という感覚があてはまりました。


故人から遠く離れているのがもどかしく、少しでも、早く帰ってなきがらとなった祖母と面会したい、と思う自分に不思議な感覚を覚えました。


11時半前、クルマを置かせていただいていた八田建設さんの駐車場から、自宅までの道のりを運転して帰っても、やはり風景が乾いて見えるというか、そんな不思議な感覚が身体にありました。


12時ちょうど、自宅に戻っていた祖母とわたしはようやく、対面することが出来ました。


今回の入院で苦しんでいた祖母の姿はそこになく、まるで亡くなっていることが嘘みたいに優しく、穏やかに微笑むように、やすらかに眠っている祖母の姿を見たとき


頭の奥の方から、理屈でなくて涙が知らない間に溢れてくる感覚とともに


まだお祖母さんが少し動いているように見え、「亡くなった」という厳然たる現実が信じられないので


「まだ生きている?生きているんじゃないのか?」


という、どこから来るのかよくわからない混乱が同時にやって来ました。


「悪い孫でごめんやで」


と心で叫びつつ、お祖母さんとの面会の後、わたしは集まっていただいていた親戚の方々の輪に混じり、今後のことについて話し合うこととなりました。


(つづく)