人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は | 鎌田kamata 幸代sachiyo ブログ

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それ人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきことは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身を受けたりということを聞かず。一生過ぎやすし。今に至りて、誰か百年の形体をたもつべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫、末の露よりもしげしと言えり。
されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風来たりぬれば、すなわち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬる時は、六親眷属集まりて、嘆き悲しめどもさらにその甲斐あるべからず。
さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて、夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなきことは、老少不定のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。

「人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに」

浮生とは浮いた生ということで、浮き草のように根っこがなく、本当にたよりになるものはないということです。
蓮如上人は別の『御文章』にこう書かれています。

まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も我が身には一つも相添う(あいそう)ことあるべからず。されば、死出の山路のすえ、三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ。
 
(意訳)
いよいよ死んでいく時は、今までたよりにしていた妻子や財宝も、すべて離れていってしまう。何一つもっていくことはできない。そして、ただ独りぼっちで死んでいかねばならないのですよ。

死んでいく時には何もたよりになりませんが、何かをたよりにしなければ生きていくことのできない人間の姿を「人間の浮生なる相」と言われています。

「おおよそはかなきものは、この世の始中終(しっちゅうじゅう)、幻のごとくなる一期(いちご)なり」

この世の始中終とは、生まれてから死ぬまでということで、一休さんは「世の中の 娘が嫁と花咲いて 嬶(かかあ)としぼんで 婆と散りゆく」と歌っています。50年、100年と聞くと長いようですが、過ぎてしまえば一瞬ですよ。はかない、幻のようなものですよと言われています。

「されば、いまだ万歳(まんざい)の人身(じんしん)を受けたりということを聞かず。一生過ぎやすし。」

今までに1万歳、2万歳生きたという人を聞いたことがない。
長生きしたとしてもせいぜい100年です。
あなたが100歳まで生きるとしても過ぎ去った時間を考えればあとどのくらい人生が残っているでしょうか。
過ぎてしまえば、一生といってもあっという間です。

「我や先、人や先」

私たちは、人が死んでから自分が死ぬと思っています。

鳥辺山 昨日の煙 今日もたつ 眺めて通る 人もいつまで

鳥辺山とは、昔、死体を燃やすところでした。今でいうと火葬場です。
 
その鳥辺山のふもとを通っている人が、昨日も煙が出ていたが、今日も煙が出ているな、今日も人の死ぬ日なんだなと思いました。
しかし、いつまでも他人が焼かれるのを眺めることはできない、やがては自分が眺められる時が来るのです。
 
私たちなら、葬式と聞くと人の葬式に参列することを考えますが、いつまでも人の葬式に参列するのではない、自分の葬式がなされる日が迫っているということです。
 
私たちは、自分だけは永遠に生きていられるように思ったり、人が死んでから自分が死ぬと思っています。「人や先、人や先」と思っていますが、蓮如上人は「そうではない、『我や先、人や先私が死んでから、人が死ぬんだ」と教えられています。

「今日とも知らず、明日とも知らず」

生まれた者は必ず死ぬとは知ってはいますが、自分だけはまだまだ死なないと思っています。
 
しかし今日交通事故で亡くなった人は、今日が自分の死ぬ日だと思っていたでしょうか。
今日死ぬと思っていなかった人が、既に何人も亡くなっているのです。
死はいつ襲ってくるか、わからない、今日かもしれない明日かもしれないと言われています。

「おくれ先だつ人は、本の雫(もとのしずく)、末の露(すえのつゆ)よりもしげしと言えり。」

本の雫、末の露とは、雨露のことです。雨が降るとたくさんの雫が落ちてきます。そのようにたくさんの人が毎日亡くなっています。
お経に出ている話です。

ある人が、お釈迦さまに「お釈迦さまは、仏のさとりをひらかれた方ですから、私たちのように苦しみ悲しみは一切ないんでしょうね」と尋ねました。
お釈迦さまは「確かに、お前たちのような苦しみはないが、ただ一つだけ苦しみがある」と言われます。
「仏のさとりをひらかれたのに、苦しみはあるのですか」と更に尋ねると「私の心の眼には、毎日、多くの人が雨が降るように亡くなっている。それが心の眼にうつるのだ。それを思うと苦しいのだ」とお釈迦さまは仰いました。

「されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。」

紅顔とは元気な顔ということです。朝、元気な顔で「行ってきます」と出発した人が、その日の内に見る影もない姿になってしまうことがあります。

「すでに無常の風来たりぬれば、すなわち二つの眼(まなこ)たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)の装いを失いぬる時は」

無常の風とは、のことを言います。
二つの目を閉じ、最後の一息で死んでいきます。
紅顔も桃李の装いも元気な顔のことで、真っ白な死に顔に変わってしまいます。

「六親眷属(ろくしんけんぞく)集まりて、嘆き悲しめどもさらにその甲斐あるべからず。」

六親とは、夫婦、兄弟、親子で、肉親のことです。眷属とは、親戚のことです。
亡くなった人にどれだけもう一度「目を開けてくれ」と声をかけ、嘆き悲しんでもどうにもなりません。

「さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて、夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。」

肉親や親類が亡くなった時、どれだけ悲しくともそのままにしておくことはできないので、葬式の手配をしなければなりません。
 
葬式が終われば火葬場で燃やし、お骨拾いで骨壺に入れます。生きているときにどんな偉業を成し遂げた人でも最後は白骨になって小さな骨壺に収まってしまう。あわれなことではないかと言われています。

「されば、人間のはかなきことは、老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば」

老少不定とは、年寄りが先に死んで、若い人が後から死ぬとは決まっていないということです。
無常の嵐の前では、皆、同じ年だといわれます。
 
人間の命はビュウビュウと風が吹いている中に立って燃えているろうそくのようなものとも言われます。
長いろうそく、短いろうそく、細いろうそく、太いろうそく、色々なろうそくがあってもすべて風の中で燃えているのですから、どれから先に消えるかはわかりません。
 
私たちの今日の命を保証してくれるものは何もないのです。

「誰の人も早く後生の一大事(ごしょうのいちだいじ)を心にかけて」

老少不定だから「誰の人も」言われています。私は関係ないという人はありません
 
「今日とも知らず明日とも知らず」だから「早く」と言われています。
後生の一大事とは、生死の一大事(しょうじのいちだいじ)ともいわれ、生まれた者は必ず死んでいかねばならない一大事のことです。心にかけてとは「それを忘れてはいけませんよ」ということです。

「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。」

お釈迦さまは、阿弥陀仏の力で、後生の一大事の解決をして、人間に生まれてきてよかった、悔いのない人生だと、本当の幸せになることができると教えられました。
お釈迦さまの教えを聞かせていただいて本当の幸せになり、感謝の念仏を称える身になりなさいよと蓮如上人は、教えられているのです。

 

 

お釈迦さまは「三人の妻」という譬え話で、白骨の章の内容を明らかにされています。