5月24日 | がんの人      by さちよ76歳

がんの人      by さちよ76歳

昨年1月に悪性リンパ腫と診断された夫との日々のつれづれ

5月24日


みゆきが新聞記事を持ってきた。伊藤比呂美さんという詩人の方の記事で、身につまされる記事だった。



死を不自然に延ばさないで


熊本市に住む87歳の父が2004年にパーキンソン病で要介護度1の認定を受けましたその後、母親が脳こうそくで倒れ、5年前から療養病床で寝たきりとなりました。


私は家族と米国で暮らしており、日米を往復しながら両親を介護してきました。母は1年前に84歳で亡くなりました。亡くなる2日前に父に抱きしめられ、声を上げて泣いたそうです。



父は「おれは、くやむことは何にもない」と話していました。でも私は4年間介護され続けた母を見ていて、老いることが恐怖になりました。一度病院に入れば、死にたくてもなかなか死ねない。



母の意識がまだしっかりしていた頃、病院に「人工呼吸器も透析も、栄養補給もしないでください」という一筆を入れましたが、実際には栄養補給が行われました。


医師は「栄養補給せずにミイラになるのを見ているのはつらい」と話していましたが、「干からびて死ぬ」というのも自然な死に方のひとつだと思います。


年老い体が衰えて介護が必要になる。それは死に向かう過程のひとつです。
その過程が不自然に引き延ばされるのは、本人にとっては「マイルドな地獄」だと思います。


「どんな死に方をするか」という本人の選択が生かされる仕組みを、介護保険の中に組み入れて欲しい。ケアプランをつくるケアマネージャーがいるように、できる限り自分が望む自然な形の死を迎えられるようマネジメントしてくれる「デスマネージャー」が必要ではないでしょうか。


納得のいく死に方をするための保険というコンセンサスが広がれば、介護保険に必要な負担もより受け入れやすくなると思います。


父も、母が亡くなってから自宅の壁に「決して救急車を呼ばないでください。
何の治療も受けません」と大書した紙を貼っています。


食べ物をのどに詰まらせて孤独死し、翌日に来たヘルパーさんがそれを見つけるのが理想だそうです。父を世話するヘルパーの方々も、父に共感してそれを受け入れています。


私の目の前で父が苦しみ出して「やっぱり救急車を呼んで」と言ったとしても、私は「お父さん、それで生き延びてお母さんと同じようになったらどうするの」と説得するでしょう。法律上の罪に問われないか心配ですが。


献身的に肉親の介護をされている人もいます。もちろん介護保険のサービスが不十分なためにそうせざるを得ない人も多いのですが、自分自身の生活はどこにもなく、親とのもたれあいになってしまっている人もいるのではと気になります。


親の多くは「子どもが自分の介護の犠牲になるより、自分自身の人生を歩んでほしい」と願っているのではないでしょうか。


親とある程度距離を取らないと、親も一人で死んでいく覚悟ができないと思います。とはいえ、自分の親からは「娘に頼りたい」という強い思いも伝わってきます。「親の介護は子どもがするもの」という周囲の圧力も強い。


私は自分の子どもたちに対して、自分が味わっているような負担感を感じさせたくない。介護保険がそれを実現できるだけの水準を満たすことを強く望んでいます。