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芝居の後、絵島は生島らを茶屋に招いて宴会を開くが、この宴会に夢中になって大奥の門限に遅れてしまった。大奥の門限は絶対で、時間を過ぎての出入りは何人たりとも禁じられている。
この事により、絵島は評定所での審理を受けることになった。関係者が徹底的に調べられた結果、大奥の規律の緩みが明るみとなった。絵島は役者の生島との男女の関係を疑われ、島流しと云う厳しい裁決が下された。
連座者として、絵島の兄で旗本だった白井平右衛門は斬首(武士にとって切腹は体面が保てるが、斬首は屈辱と言える)、弟の豊島常慶は追放刑で最も重い重追放となった。
生島は三宅島への遠島となり、山村座は廃座となっている。
この様にして千人以上が罰せられたそうです。
絵島は、幽閉された屋敷で 極めて質素に過ごしたそうです。
絵島に下されたのは島流しの刑だったが、月光院は減刑を嘆願する。これにより、絵島には罪一等を減じて、信濃高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町)へのお預けと云う処分が下されました。
屋敷に幽閉された絵島は、酒と菓子類を禁じられ、朝夕二度の食事は一汁一菜、着る衣服は木綿のみと云う質素な生活を送ることになった。外部との手紙のやり取りは許されなかった。
一日読経をして過ごしたり、唯一、外出が許されている日蓮宗の蓮華寺に行くなどしたりして、信仰を心の拠り所としていた。
そうした清廉な態度に高遠藩の藩主・内藤頼卿は心を動かされ、幕府に赦免嘆願書を出した。
その様なこともあって、絵島の日常は比較的自由になった。屋敷周囲の散歩も認められ、月に何度かは城に出て城に勤める女性たちに躾の指導も行ったそうだ。
また、月光院が吉宗の許可を取り付け、絵島は江戸に戻ることが許されたのだが、絵島はこれを断り、信濃に留まり続けた。
二十七年の幽閉生活の後、絵島は1741年に風邪が元で他界したそうです。
絵島の墓は前途の蓮華寺にあり、彼女が幽閉された屋敷は当時の見取り図を元に復元され「絵島囲み屋敷」として、長野県伊那市高遠町歴史博物館の敷地で公開されています。
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