丘の上の修道院ポパ修道院を訪れ、ここサン・フェリペ要塞へやってきました。
チーバに揺られて。
ところで、このチーバ見てのとおり、窓やドアがないくらいなのでエアコンなどというものもなく、ちょっと暑いです。
今日は、この要塞(関連記事:欲が造り出したサン・フェリペ要塞)の中を歩いて回りたいと思います。
「英語ガイド付き」と聞いて申し込んだツアーですが、スペイン語オンリーだったため、ここでも概要だけ聞いて早々と自由行動に移ってしまいました
近年観光に力を入れている、コロンビアの名誉のために書きます^^
英語話者の不満が爆発したため、ツアー会社は英語ガイドを呼び出し、後半は”約束通り”英語ガイド付きだったようです。
早まったことをしてしまった・・・
さて、121年の歳月をかけて完成させた、サン・フェリーペ要塞(サン・フェリーペ・デ・バラハス城)、大きいです。
Wikiからお借りしたパノラマ画像で見るとこんな感じです
暑さもあって、「えっ、上に上るのも面倒・・・いえ、しんどそう」と思ってしまいましたが、ここで諦めてしまっては何も見られません。
頑張って上ります
コロンビアのあちこちから(あるいは南米のあちこち?)この要塞を見学に来る人が多いようです。
”コロンビア(あるいは南米)のあちこちから”と思ったのは、聞こえてくる言葉からです。
ひたすら上を目指します
誰にとってもらったのか・・・こんな写真が1枚残っていました
影長っ!
こんなふうに、なだらかな斜面が続きます。
城内には、こんなトンネルが張りめぐらされています
ジメジメしていて、気持ち悪いです。
トンネルを抜けて上に出た時は、ほっとしました。
「たいしたことないね!」って思われた方、このトンネル、実は真っ暗なんですよ~
懐中電灯が必要です!(現在は灯りがついているとか?)
フラッシュなしで撮るとこうなります
ちょっと怖いです
1人で歩くのは、絶対にイヤです。・・・いくら私でも
レンガ造りの通路だったようですが、現在はコンクリートで覆われています
Wikiから借りてきた要塞の図面です (赤い〇印は気にしないでください) 二重破線で示されている部分がトンネルです
トンネルの要所、要所に見られる〇印は、Claraboya(天窓)。
通気口としての役割と、侵入者を見張るための役割を果たしていたのだと思われます。
そんなに多くはないですが、残っている大砲は17‐18世紀当時に造られたものだそうです(台は新しいようですね)
時や合図を知らせる鐘
旧市街を一望できる場所には人が集まってきます
(旧市街を写した写真は、データ破損のため残っていません)
結構な時間を過ごしていたようで・・・
夕刻が近づいているようです
到着したとき(1番上の写真)とは、壁の色が違って見えます
1741年、この強固に造られた要塞はイギリス軍の攻撃に耐え、ブラス・デ・レソ率いるスペイン軍は2.7‐3万人のイギリス兵に対し、正規兵3000人(+先住民やらヘルプ隊2000‐3000、合計5000‐6000人)の勢力で勝利したとか。
イギリスは、2.7‐3万人もの兵士を船で運んだんですね。
その数もすごいですが、スペイン軍はその10分の1の兵力でどう勝利したのでしょうか。
調べてみると、ブラス・デ・レソ提督の作戦勝ちのようでした。
ちなみに、作戦というのは、雨季まで時間を稼ぐというものでした。イギリス兵は船に待機するか野宿を強いられることとなり、結果として疫病が蔓延し相当な兵力を失ったようです。
スペイン軍にしても、この疫病の被害は大きく、ブラス・デ・レソ自身も疫病を移され、大戦後わずか数週間で亡くなったとか。
イギリスは、この戦いにより死者1万人以上、戦闘不能者もあわせると18000人を犠牲にしたようです。
戦争って恐ろしいですね。
しかも、もともとはその土地、その土地には先住民(いわゆる”インディオ”)が住んでいたわけで、イギリスの土地でもスペインの土地でもなかったはず。
両軍の大量の兵士が犠牲になっただけでなく、インディオたちの犠牲は相当たるものですね。
前記事、今記事を書いて改めて思いました。
人間の欲というものは、計り知れない。
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今日は重たい記事でしたが、コロンビアでの一番の思い出はまだこれからなんです
ニャンタが一足先に出かけた、カリブ海もこれからです
ということで、もう少しの間、コロンビア・シリーズにおつきあいくださいませ
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