私はずっと「役に立たねば症候群」に、取りつかれていました。

仕事を通して、何とか人の役に立たなくては!と焦っていました。

 

「自己有用感」という言葉がありますね。

自分が他者の助けになっている、と喜びを感じるのは素晴らしい事ですが、

それが行きすぎて「役に立たねば、自分の行きている意味がない」まで思い込んでしまうと苦しい。

 

他人のためにヘトヘトになるまで働き、苦しいのにやめられない人は、おそらく自分の存在意義が、有用感によって支えられている人なのでしょう。

 

 

役に立つかどうかで他者まで判断してしまうと、ナチスや相模原の施設を襲撃した人のようになってしまう。

両者とも極端な例ですが、ホームレスの人を襲う少年達も、程度こそ違え、同じ思想を持っていると推測できます。

 

彼らは自分の有用性の高さを、相対的に意識するために、自分より低く見える人を攻撃したり、排除しようとしている。

それは本当に自分に有用感を持っている(健全な自尊心がある)人なら、やらないこと。

 

 

「役に立つ」という判断基準も、置かれた環境によって変わります。

手術室で患者の命を救う、頼もしいお医者さんを、オリンピックの場に選手として立たせたら、役に立つでしょうか?

病院のなか以上に。

 

人には向き不向きがあって、どこかでその人が役に立てる場所があるはず!と、思ってきました。

それはその通りなのですが、今は少し考えが広がりました。

 

 

そもそも「役に立つ」かどうか、人間が判断できる範囲なんてたかが知れているのではないか、

自然が作り出すものに無駄がないとしたら、その有用性は人知を超えている。

ちっぽけな人間の自我が判断できる物ではないのではないか、ということです。

 

 

どんなに役に立たないように見える(人を含めた)生物でも、物質でも、この世界に存在するということは、皆、何らかの有用性を持っている。

 

と、したら私もこの世界に「居るだけ」で意義があるのかもしれない。

そう思えたら、肩の力が抜けて楽になりました。

 

 

この世界に精一杯生きて、できることをする。

 

 

私のしていることが、どれくらい人の役にたてるかわからないけれど、自分の誠を尽くす。

 

 

この世界に誠を尽くす。

 

 

それでいいのだ、と思えて来ました。