今年の 3 月 19 日に私は盛大に聖ヨゼフの祝日を、或る修道院の聖堂で歌ミサを捧げてお祝いした。
かなり以前の習慣ではあるが、イエズス会では 3年間の神学の勉強が終わる三月に、 かつては司祭叙階が行われていた。
四旬節の最中であっても、聖ヨゼフの祝日は大々的に祝われる。
そこで司祭叙階式をその前日に行い、当日には聖ヨゼフの執り成しを祈りつつ、初ミサ を各自が石神井の神学院の聖堂で、家族や友人を招いて大喜びで行なった。
ヨゼフは全教会の守護者であり、労働者の守護の聖人として崇め られている。
しかし彼の生涯や働きについて各福音書は余り語らない。
彼は義なる人、ナザレ村の大工、夢で示される神の指示に沈黙して従うばかり。
彼はイエスの誕生に密に関わり、イ エスの名付け親であり、エジプトに下り、12 歳 のイエスの言行に立ち合った。
残念ながら、彼の肉声・ナマの応答は皆無である。
こうして人々の空想は、彼を年寄りのヒゲ爺さんに変え、 前婚の連れ子を伴わせ、マリアとの結婚後は十数年で早死したという。
しかしいずれも、福音書の中に確実な根拠や裏付けを欠いた後人の勝手な想像と思われる。
私は暇にまかせて「カトリック教会情報ハン ドブック」を調べてみたところ、マリアの名を冠する修道会に比べて、ヨゼフの名を戴く修道会は余りにも少ないことに驚いた。
ほぼ 30 対 1くらいなのか。修道会の創立者たちは、マリアの生涯や働きの中に信仰者として仰ぐべき 理想を見出し、マリアに肖る奉献生活を志した結果として名づけたのであろう。
しかし別の見方をすれば、キリスト者の教会で十二分に黙々と額に汗する肉体労働、下積みのまま沈黙のうちに続く日常の平凡な庶民のナリワイが尊ばれ重視されたのだろうか。
むしろ祈りや観想に専心し、また学識や学問が大いに尊重されたのではあるまいか。
キリスト教自体も奉献の在り方も、生涯を黙々と働かざるを得ない無名の人々からは遊離し、凡人の現実とはほとんど無縁な生活になったのではあるまいか。
かつて私の父母は、7 人の子供たちに囲まれていた。
確かに父さんびいきも母さんびいきもいたが、どれほど生身の父母を理解していたの か。
二人は若い時に大変な恋愛で結ばれたが、 母方の両親は決して結婚を認めず義絶状態が長く続いたと聞いている。
そういえば父が母方の家を訪れ、一緒に食卓を囲むことは一度も無かったようだ、祖父母はいつも私たち孫を大歓迎していたが。
かつてはアツアツの仲だったが、 父母はよく夫婦喧嘩をしていた。
そんなに仲が悪いのならば、早く別れた方が幸せではと子供たちは思ったが、父の死後に母がどれほどうち萎れ、父を頼りに生きていたかを見るにつけ、 子供には決して立ち入れない夫婦の縁や不可思議さを思い知った。
口数の少ない父親の孤独や悲哀を、実の子供たりとも十分に汲み取ることはできなかったのでは。
私は神の派遣に応えて種々の聖務を各地でこなしてきたが、司祭は本質的に流れ者であり、 自分の城に好きなだけ留まり続ける永住者ではない。
今までの年月、私の司祭生活の模範と 理想を、聖ヨゼフの沈黙と労働に仰ぎつつ、早 くも 51 年が過ぎた。
随分と山谷やデコボコに富んだ道行きを思いめぐらしながら、教皇フラ ンシスコと共に祈っている。
父親である聖ヨゼフよ、私の日々の歩みを導いてください、慈しみと勇気が与えられ全ての悪から守られますように。
ヨセフが先妻の子供をつれてマリアと再婚したということは、プロテスタントでは考えられないことです。
しかし、カトリックでは長い教会の歴史の中で聖伝として語り継がれているのです。
夫婦について、アダムとエバのように「お前が悪い」「あなたが悪い」といつも罪のなすり合いを行い喧嘩しています。
子供からすれば喧嘩をするのなら別れてしまえばと思うわけですが、夫婦関係は子供には分からない深い繋がりがあるのです。
しかし、神父さんが結婚したこともないのに信者に夫婦関係について説教しているのを聴くと笑ってしまいます。
司祭は流れ者、復活祭を境に神父さんが異動されます。
今年3月に中村神父はイグナチオ教会へ異動されました。
今日、久し振りに電話してみました。
「35年間上智大学にいて、25年ぶりに帰ってみると全てが変わっていた」とおっしゃっていました。
わたしたちは、6月に東京へ旅行するつもりですと言いうと「信徒会館にお茶を飲む部屋があるので一緒に飲みましょう」言われ、東京に行くのが楽しみです。
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