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ごはごはごはん

お出かけの記録。日常のあれこれ。
デザインの広告契約が切れたため、スキン作成中。

http://abenoharukas.d-kintetsu.co.jp/event/1/2014moominten.html
大阪の近鉄アート館に、待ちに待ったムーミン展が来た。

トーベ・ヤンソン生誕100年だそうです。

原画展が、やはり素晴らしかった。
おおよその作が、わたしが生まれたころの作品だったのだが、保存状態が素晴らしかった。

作家でもあり、挿絵も描いたトーベには、確たる世界を持っていて、自分の描いた小説に相応しく、小さなトロールたちを愛情深く描いたのだと思います。

作家の余技を超えて、画家としての観察力もすごかった。
こういう人は、他にはドリトル先生の作者、ヒューロフティングが、やはり自作に挿絵をつけていましたが、私はどちらも好きです。
自分で挿絵を書くと、自分の物語の中身を正しく具現化出来ていいのかもしれない。

海、波、針葉樹、霧の描写が的確で、しかもムーミンの世界観とブレていない。
北欧の島で暮らしていたという彼女の、目と手がすごい。

波の描写が、海を身近に感じている人の目だった。
霧の描写が、森の中を深く観察している人の目だった。

ほとんどが白い紙にペン書き、または水彩。
一部黒地を引っかくスクラッチもあった。

習作、スケッチを、挿画になった作品と並べて展示していたので、下書きと仕上がりを比べてみることが出来て、線の引き方や登場人物の描写へのこだわりがよくわかり、すてきだった。

平日にしては、人は多かったと思うが、ならんで、絵を見て流れていく感じだったので、一枚の絵を1~2分程度は独り占めは出来た。満足。

グッズのお買い物も楽しかったし、レジ列はすごかったけど、さばきも的確で、待たされず、いい気分で会場を後にした。

一階上の催事場でのムーミンカフェは、残念ながら満席だったけど、向かいのMIOのムーミンスタンドはすいていたので、そちらで、ニョロニョロの種を飲んで帰ってきた。

いい展覧会です。
北欧に興味のある方もどうぞ。25日まで。


指輪物語は、美しい物語である。
映画の指輪物語も、大変美しい物語であった。

同キャストで演じられる、指輪物語につながる、プレストーリーがホビットである。
公開されたばかりなので、あまり書きませんが、つづけて三作観るといいと思うよ。
エンドロールの鉛筆画が、大変素敵なので、ぜひ、席を立たずにご覧ください。



ネタばれを嫌う方は、ここから先は読まないほうがいいかな。



指輪物語が、ビルボが拾った指輪をフロドが捨てに行く話で、ホビットは、ビルボがドワーフに巻き込まれて指輪を拾ってくる話だ。

今回も美しい話だった。
3Dは苦手だが、吹き替えが森川さん山路さんでは、やっぱり吹き替え。
前キャストがみんな、美しかった。

イアンマッケランとクリストファーリーがお元気な間に、サイドストーリーをぜひ、作ってください。


(トレーラー音が出ます)
http://wwws.warnerbros.co.jp/thehobbitbattleofth


生徒に話したら、職場の人にばれた。
管理職にもばれた。

一人は情報の先生で、コンピューターミュージックの先生だった。
初音ミクを授業で教えていた人だった。

きゃー、ごめんなさい。
【KAITO】かぜみやび(風雅)【オリジナル】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm24990759


風雅なおとさんのヴォーカルレッスンに通って一年近くになりますが、ついに、先生がサンプルヴォイスを担当されている、KAITO V3というボーカロイドを、夏に買って、打ち込みの練習をして、先ごろ、作者の方の許可を得て、アカペラの歌に、曲をつけて、絵も描いて、アップしました。
一度聴いていただけると嬉しいです。
友人達が「ひめゆり」のお芝居をご覧になったらしい。
日本の過去と未来を、いろいろと思われたことと思います。

私の祖父は、開業医でしたが、昭和19年に軍医として徴兵され、大阪の金岡に入隊。
沖縄の那覇近郊に赴きました。

乙種でありましたが、その時期の徴用は生きて帰る事を望む事が出来ないものでした。
家族とは水杯を交わしての出発だったということです。

沖縄が本土に返還されてすぐ、つまりパスポートなく、沖縄へいけるようになったときには、叔母と祖母を伴い、那覇でお世話になった方を訪問したことも覚えています。

叔母が言うには、最後に兵隊さん以外の人を逃がして、投降したのは喜屋武岬だったそうです。
喜屋武では、家族とはなれて、当時軍部が投降した場所に、ひとりで祈ったそうです。
救えるはずだった幾つもの命を失う、医師のきもちは、いかばかりかと思います。

数年の捕虜生活を経て、祖父は帰宅しました。

「もはや戦後ではない」といわれた昭和30年代後半に生まれた私が覚えているのは、手先の器用なおじいちゃんが、内科医として開業していたこと。
昔は、小児科や耳鼻科の手術の名手であったらしいこと。
「戦争はあかんで」と言ったこと。
外国人を「毛唐」と呼んだこと。
ひじに銃創があること。
下肢にも砲片が残っていたらしいことです。

あまり多くの事を語らずに、1996年に祖父は90歳でなくなりましたが、もっといろいろ聞いておけばよかったと思います。
蔵書と、大学時代のノートを製本したものが、形見となっています。

十数年前、父と沖縄に旅行しました。 観光バスに乗って、ひめゆりの壕の近くにも参りました。
「おじいちゃんはおきなわでたたかったんやな」と、父はゆっくりとつぶやきました。


※上記の文章には差別用語が含まれておりますが、これは、必要と判断したものなので、削除の予定はございません。ご意見がございましたら、謹んでお受けいたします。