うたた寝してるのだろうか。
 
 音を立てないようそっと近づいてみる。マチさんは苦しそうに肩で息をしていた。
「マチさんっ」
 私に気づいて彼女は血の気を失った顔を上げた。
「苦しいんですかっ、誰か呼んできましょうかっ」
「大丈夫。少しじっとしてたら治まるから」
 話す声も苦しそうだ。汗が滝のように流れ、机の上に赤い雫がこぼれる。
 吐血!
 思わず声を上げそうになるが、雫は顔から滴り落ちている。
「どこか切られたんですか、痛みは……」
 鞄からタオルを出し、マチさんの肩を抱き起こして額の汗を拭おうとすると
「大丈夫だから。そっとして置いて」
 そうは言っても傷でもあったら。イヤイヤをするように肩を揺する彼女を抱え、私は壊れ物に触れるようにタオルをそっと押し当てた。
「マチさん……」これって……。
「お願い……、誰にも言わないで……」

 フィルターに盛り上がった泡がゆっくりと沈み、香ばしい空気が研究室を満たしていく。
 誰も来ることはないでしょうけど、とマチさんは寂しそうに笑ったが、一応念を入れて私はドアの内鍵を締めた。今誰かに見られたらマチさんが死んでしまうような気がしたからだ。
「薬は飲んでるんですか?」
「出来るだけ飲まないようにしてるのだけれどね。あなたが来てからはずっと調子が良かったのよ」
 少し落ち着いたマチさんは私にコーヒーをねだった。インスタントではなく、ミルで挽いたコーヒーを。
 彼女は聞いて欲しいのだと私は覚った。いや、そんな気がしただけかもしれないけど、その時の私には確かにそう思えた。
「お水のほうが良くないですか?」
「いいの。薬はいらない。どうせ気休めだから」
 カップに注がれた黒い秘薬に顔を寄せ、その薫りを肺に流し込んで「これが一番ね」と呟く。
 それからカップを手に取ろうとして、初めてその手に握られていたものに気づいたようにそっと机の上に置いた。

 彼女のものにしてはちょっと武骨に過ぎる黒縁の眼鏡。

 私の視線の行方に気づいた彼女は、モカの薫りで少し精気を戻した瞳を落とした。
「これはね……九十九番目なの」