沢の水音が遠くにも近くにも聞こえる。

 ヒグマの吐く荒い息が次第に小さくなり、そして前足を地につけた。

「おまえは、ひとにはかなわない」

 長い静寂を破って、大ちゃんが言った。実際にはそれほど時間は経っていなかったのかも知れない。熊と大ちゃんの対峙は、長く、短かった。

 話し掛けようとする涼子を止め、大ちゃんは相手の方へと一歩進み出た。

 熊は怯んだように後ずさり、さらに大ちゃんが一歩前に出ると、ゆっくりと踵を返して去って行った。

「あいつはひとの匂いを覚えた。もう絶対に近寄らない」

 しゃがみ込んだ涼子に駆け寄り大ちゃんは自慢げにそう言った。ばあちゃんはその頭を撫で、たいしたもんだと褒めちぎっている。

「あの熊はここいらの新しい主になるかの」

 ばあちゃんが言うと、大ちゃんはかぶりを振った。

「もう違う。あいつはさっきまで一番強かったけど、今は替わった」

 ばあちゃんは大きく頷いた。涼子はまだ理解しかねている。その手を取って助け起こしながらばあちゃんは言った。

「涼ちゃんは、この山の新しい主の母ちゃんになったんだよ」

 どこからか鳥が一羽飛び立った。その羽音は、ばあちゃんの言葉に賛同しているように聞こえた。


 浅い沢で子供を遊ばせながら、涼子はばあちゃんに尋ねた。

「本当にあの人と会って、この子を会わせて大丈夫なんでしょうか」

「しずさんが頃合いだと言ってたなら大丈夫だろうね。涼ちゃんだって、嫌いで別れた訳ではないだろう?」

 わたしは、と涼子は声を落とした。

「あの人の重荷になりたくなかった」

 結婚すると思っていた。ふたりで、あの街で幸せな家庭を築けると思っていた。だがある日、突然周囲の人間の心が読めるようになった。

「生まれながらに特別な力を持つ子を授かると、その子を育てるための不思議な力が母親にも宿る。山守の家系には時々そういう事が起きる」

 ばあちゃんは誰に向かって話しているのか。おれの息子はその《特別な子》だというのか。

「男衆にはなかなか出んがの、出る時は強く出る」

 涼子とは街で知り合った。おれは里を出て大学へ通い、その街で仕事に就いて、派遣スタッフだった彼女を見そめた。

 早くに両親を亡くしたおれたちは互いに近いものを感じ、ふたりで暮らすようになるまでそう時間はかからなかった。いわゆる天涯孤独で、高校卒業後派遣社員で生計を立てて細々と生きてきた彼女をおれは、いつかばあちゃんに引き合わせて家族の暖かみを教えてあげたかった。

 おれにはばあちゃんがいたから。

 街での仕事は新鮮で、やればやるほど評価も上がり、いよいよ責任のある立場になろうかという時に彼女は去って行ったのだ。


 ばあちゃんと涼子の会話の端々から、それからの彼女がどう過ごしたかを多少は窺い知ることは出来た。その頃おれは仕事に生きがいとやり甲斐を感じていたし、涼子はお腹の子供が街では育てられないことも直感で感じていた。ふたりで過ごすにはおれか子供のどちらかが犠牲にならなくてはならない。どうしても子供を産みたかった彼女はおれの元を去ることに決めた。ひとりになり、大きくなっていく腹をかかえて途方に暮れている時に、突然来訪者が現れる。

 しずさんだった。まっすぐ彼女を尋ね当て、お腹の子供の育つべき場所へと連れて行ったのだという。涼子は、そこがおれの故郷だとは知らなかった。

 そのしずさんが頃合いだと言ったのなら、おれと涼子の再会は決まったことなのだろう。工藤家は特に力を持つ人間が多く出る家だった。旦那さんである市議を射止めた時も、まっすぐに彼を見つけて、出会うなり惚れさせたと子供の頃に何度も聞いた。

「おばさまには本当に感謝しかなくて」

 涼子はしみじみと言う。原因がどちらにあるかは知らないが、あの家に子供は産まれなかった。しずさんは、大きな娘を迎えるからそのために必要なことだと夫に常々話していたそうだ。時が来たらそのようになる。言葉通り涼子を連れ帰った時、市議は悩みも疑問も失せて彼女を迎え入れた。

「まさかおばあさまが彼の言っていたおばあちゃんだなんて驚きましたもの」

 おれだって驚きだ。探してはいた。真実を知りたかった。不思議と、涼子を忘れて次の恋を探そうという気にはならなかった。

 彼女を見つけられなかったのも、忘れることが出来なかったのも、しずさんが言う《時》

がそうさせたのであれば納得がいく。

 すべてはなるがままに。彼女の安否を不安に思ううちにおれにこの力が芽生えたのも、なるべくしてなったことなのかも知れない。

「とうちゃんもうすぐ?」

 川遊びに飽きた大ちゃんが山菜を摘むふたりに駆け寄った。

「でもとうちゃんずっといるよね」

 涼子がキョトンとして息子の顔を見た。ばあちゃんは小さく笑い、口元に人差し指を当てた。

 小さな山の主は、それを真似て内緒のしるしをばあちゃんと交わした。そして、ふたりはおれの方を見た。


 まあ、バレてただろうな。せいぜい頑張って、涼子にサプライズといこう。

 国境の長いトンネルを抜ければそこは故郷だ。右手に登った太陽はだいぶその日差しを増している。北へ行くほど季節は逆戻りして、春の花と、ばあちゃんと、最愛の妻になる人と、それにやんちゃざかりの息子がおれを待っている。

 それとあの懐かしい山菜汁。ばあちゃんの得意なおれの大好物だ。

 続きは実際に会ってから。おれは千里眼を閉じ、意識を故郷へと向かう車内へと戻した。