川俣 軍司 深川通り魔殺人事件




昭和56年6月17日。


それは白昼の犯行だった。


川俣軍司はこの事件の2ヶ月前にシャブで府中刑務所から出たばかりだ。



4回刑務所に入り通算4年半ぐらいの務めをしている。



川俣の生い立ちはけして裕福では無かった。



川俣が生まれた頃に日本はまだ軍事色の匂いが残っていた。


川俣軍司は同級生に「軍司、軍司」とからかわれるがただ笑ってるだけで終わった。


その級友は川俣のことを口を揃えて「気の小さな子だった」と言う。


中学を42年に卒業すると進学率が100%に近かった時代、寿司職人になると家を出た。

私より2歳年上だ。


逮捕されたときに、白いブリーフ、白いソックス、猿ぐつわをかまされて連行された姿は全国ネットで放映されたものだ。


とても老けていた。

あの時川俣は29歳だった。


川俣の言い分は社会への反発だ。


18歳の時に勤めた寿司店を3年で辞めている。


川俣はここで、住み込みの同僚に絶えずイジメを受けていた。


この時期に川俣軍司は二の腕に牡丹を彫った。


川俣は自分の気の弱さを隠し、その同僚への反抗心だった。


しかし、その同僚たちは既に彫り物をしていたのだ。


川俣は何処へ行ってもイジメの対象になっていたが、それがシャブの道へと走らせた。



それ以降の川俣は人が変わったように粗暴化していく。


実家に帰っても、細々とシジミ漁をしてる両親に暴力を加えていた。


その結果、両親は家を出る。


川俣はその後2回の懲役に行っている。


府中刑務所を出ると職を探して歩く。


しかし、7件のすし屋を渡り歩いている


凶悪な性格が何処で形成されたか・・・・・


シャブの恐ろしさだろうが、受けたイジメによって形成されていったのかも知れない。



凶行は10件目のすし屋の採用を断られた直後の犯行だった。


その為に刺身包丁は持っていた。


中華料理店に7時間ぐらい人質にして篭城したが警察の突入で連れ出された。



川俣軍司は取り調べに際して


「俺は人一倍冷静な人間で被害妄想ではない」

と語っている。


また

「バカに4人も殺せるか。この辺で人生を終わらせたかったんだ」


しかしおかしな事も言っている

「役人が電波で指図して、俺の就職を妨害した。その報復だ」


いつも思うのだ。

ポン中がおかしくなると、電波と言う言葉を良く聞く。


私も散々やったけど、電波など聞こえたことなど無い。



川俣は「被害妄想状態にある心神耕弱」が採用され、死刑にならずにすんだ。


無期懲役。



川俣の体から、微量のシャブの反応が出ている。


世間からはじき出されたことへの鬱積だ。



川俣軍司は仮釈で出ている。


シャブも程ほどがいいのだ。


川俣軍司のように微量でフラッシュバック的な事を起こしてはならない


皆様、気をつけましょう。


あっ電波が・・・・・・・