これはノンフィクションで、実際の出来事(笑)

もうやってられない‥?!

いや、気付いたぞ!

 

これは、あくまで私個人の見解。

 

音符を、MIDI(パソコンと直結したミニキーボード)で打ち込んだ音源(演奏)を聴いていた。

不覚にも、機械が “弾いている” 感情のない完全な演奏に感動してしまった。

それだけならまだしも、なんとそれが、ショパンの曲だったこと。

 

そこから躍起になり、あらゆる作曲家の打ち込まれた演奏を聴き漁った。

驚くことに、いわゆるロマン派の音楽は和声やメロディがしっかりと形成されているためか、楽しく聴くことができたのだ。

その打ち込まれた機械の演奏とは、まさに最近よく聴くテクニシャンの演奏そのもの。

テクニシャンに慣れてしまっているせいか、その機械の演奏は人が弾いているようにも聴こえる。

当たり前だが完全に音がハマっていて、全ての音符が抜け目なく再生されている。

敢えて、完璧ではなく、完全と言いたい。

(音が完全にハマっているが、それが完璧な演奏とは言えない)

 

名だたる巨匠たちは、機械的なメトロノームのような演奏をよく嫌うが、

これらはまさに機械的な、いや正真正銘の機械の演奏。

「ミスのない、完全な演奏」→『楽譜の音符を一音たりとも抜かりなく再生する作業』

を目指すなら機械に勝るものはないのか。

今で言う、「AIの演奏」だろうか。

 

意外にも、聴くに耐えなかったのは、バッハ、モーツァルト、リストの曲だった。

シンプルな音楽ほど人間の手に委ねられていて、意思、経験値、個性や感性などが如実に表れてしまう。

リストの曲もこちら側だったことにも、意表を突かれた。

例えば、「ラ・カンパネラ」なんて、機械的に弾く方が良いのかと一見思うが、実にそうでもない。

「愛の夢」や「ため息」も、ショパンのノクターンとは違い、機械では通用しなかった。

なぜショパンは機械でも通用するのか!?

バッハも、チェンバロ風に?味付けせず弾いた方が良いのか・・、これもそうでもなかった。

 

モーツァルトに関しては、それは著しいものだった。

モーツァルトの曲は、機械には全くと言っていいほど通じない。音楽にならない。

太刀打ちできない。

 

ベートーヴェン、ドビュッシー、スクリャービンは、曲がしっかり作られているためか、

“打ち込み演奏” は、スピーカーで聴く分には十分に楽しめた。

この打ち込み演奏も、絶妙に強弱や緩急が付けられていて、

もはや良いとこ取りした “完全な演奏” になっている。

 

私は、いささか落胆した半面、やるべきことが見えてきた。

ここで、

「メトロノームのように弾く難しさと、味気無さ」との、相対関係を知る。

 

前ブログに書いたような、ショパンの言葉を借りるなら、

「自分に何が足りないのか、また機械的な演奏に何が足りないのかが分かった。」

 

 

そしてやはり恐るべし、バッハ、モーツァルト・・・

 

あくまでも、私の見解‥