大学院修士作品でオールショパンプログラムを組んだのをきっかけに、ショパン作品を軸に他の作曲家も色々と勉強してきている。
最近ではとりわけ、モーツァルトやベートーヴェンの魅力にも憑りつかれている。

 

2015年にここでのブログでも書いたが、

6年前に亡くなられた中村紘子さんがショパンコンクールの審査員をしていた時のコメント。

 

『ショパンというのは、ピアノという楽器の完成と共にあった作曲家で、その完成を導いた人。
ピアノの魅力・ピアノの特性を最大限に発揮する作品を書いた人。

従って、それを最大限に演奏できる人は、他の作曲家の作品においても、いい演奏が可能で、表現力がある。』

 

という言葉を残してくれている。

当時若すぎた私は、「ショパンが弾けると何でも弾けるんだ」と思い込んだ。

しかしそれは、そんな単純なことではなく、とてもとても複雑で険しい道。

ショパンが弾けるようになるためには、どれだけの事をしなければならないか・・。

幸なことに?、私の幼少時代はどちらかというとセンチメンタルだったので、ショパンの作品は案外スンナリと入ってきた。

しかし彼の作風はそれにプラスして、ノスタルジックでバロックでリズミカル・・・とまぁ内面もテクニックも、やることが多い。

 

最近のショパンコンクールにおいては、

“速さを競っている” ようにしか思えず、ここ数回の入賞者の演奏は特に興味がない。

機械的で、速さを“売り”にした演奏は、私のセンチメントに引っかからない。

上手な演奏ではなく、個性溢れる綺麗な音楽が聴きたい。

その点、前回ブログの巨匠たちはもちろん、アンドレ・シフ、ギャリック・オールソン、イーゴ・ポゴレリッチ、ネルソン・フレイレの演奏もまた私の心を鷲掴みにする。

各々の解釈からくる音色作りと、音楽作り。

正に洗練されている。

ヴァイオリンでも同じことが言える。

 


「ショパンの人生についてのドキュメンタリー」(一部抜粋)より


ポゴレリッチ:

「私は第一に、ショパン音楽の新しい解釈の復元を提示するために、ここに来ました。」

(ショパンコンクールにて)

"I came here, first of all.. to propose a new restoration of the interpretation of Chopin's music. "

 

 

ショパン自身:

1831年の夏、私はパリへの旅を決めた。9月に到着した。
祖国の運命を想うと、今まで以上に胸が苦しかった。
だが私をもっと悩ませたのは、大切な人達が傍に居なかったこと。彼らの運命は・・?
私は、世界の名立たる作曲家が集まる街に住んだ。
リスト、ロッシーニ、ケルビーニ、ベッリーニなどの一流の芸術家たちが居る中で生活し、

自分が完璧になるためには、"補わなければならない足らないもの" が何か分かった。
そしてまた、"彼らが完璧になるために、補わなければならないもの" も、わかり始めた。

 

Chopin:

In the Summer of 1831 I decided to travel to Paris where I arrived in September.
My heart suffered more than ever for the destiny of my country.
But what bothered more than anything was the absence of my loved ones..my doubts about their fate.
I was in the city of the world's greatest composers, I understood what deficiencies I still had to compensate for to become perfect. I was living amongst thoroughbred artists, Liszt, Rossini, Cherubini, Bellini.. they all came to Paris, and I also began to understand what deficiencies they had to compensate for.

 

アレキサンダー ラスコフスキー

(音楽ジャーナリスト):

ショパンがポーランドで国民的ヒーローになるには、歴史的な過程がありました。
彼の音楽は、私たちにとって、とても重要です。
なぜなら、ポーランドがまだ地図上に無かった時、困難な時期に我々の自然な国民精神が具現化される。
我々は、実際に助けてくれ、国民を信頼する象徴が必要だった。
ショパンはその一人だった。
ここポーランドで起こった反乱で、ショパンの音楽は常に我々に寄り添っていた。
さらには、ショパンの背景が伺える記念碑が建てられた。
第1次世界大戦後の1926年、ポーランドが地図上に再び乗った時にそれは建てられた。
実は、ナチスドイツがポーランドを侵略したとき、その記念碑が我々の文化と独立にとってとても重要であると分かり、1940年、彼らはポーランド国民をとてもとても勇気づけていたその記念碑を破壊した。
 

Aleksander Laskowski: (21:25〜)

It was very long historical process for Chopin become national hero in Poland.

His music is very important for us.

Because it embodies our natural national spirits during our difficult times when Poland was not on the map.

We need symbols that would actually help us believe in our national identity that would help us keep it and Chopin was one of them.

We had meant insurrections here in Poland and Chopin’s music would always accompany us. Even the very monuments that we can see in the background Frederic Chopin it was built.

It was erected in 1926 when Poland was again on the map after the first World War.

But it was considered so important for our culture and for our independence that when actually Nazis German invaded Poland.

They blew it up in 1940 because it gave too much courage to the people.

 

 

 

翻訳も、日本語にするだけなのに奥が深い。

英単語の前に、日本語の勉強か・・

 

『語学=演奏=料理』

 

リスニング=聴音=味見

リーディング=読譜=品定め

スピーキング=演奏=調理

ライティング=採譜=レシピを作る

同時通訳=初見演奏=即席料理

 

五感は、どれもサボれない・・