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読んだ本とか備忘録

草をわけて 続く道と
みえない空の道が
どこかで 出逢いそうな日
モーツアルトの木管がなっている

――岸田衿子 『ソナチネの木』より

第9回『このミステリーがすごい!』大賞優秀賞作品。
長崎県南児童相談所の所長が語る、ある少女をめぐる忌まわしい事件。10年前にいったい何が起きたのか―。
小学校教師や小児科医、家族らの証言が当時の状況を明らかにしていく。さらに、その裏に隠されたショッキングな真実も浮かび上がる。
関係者に話を聞いて回る男の正体が明らかになるとき、哀しくも恐ろしいラストが待ち受ける。
(「BOOK」データベースより)


うむうむ、なんと言うか。
亜紀という少女にまつわる悲惨な事件について、ある人物が当時を知る関係者に話を聞いて回る…果たして事件の真相は?
そして、この「ある人物」とは…?
という話なのですが。

ひとことで言うと、チョウゼツ劣化版『白夜行』。
(前にも劣化版『白夜行』と感想を書いた小説があった気がするけど、タイトルが思い出せない)

児童虐待がテーマなので、非常に気分の悪くなる話である。
後味悪けりゃそれでいいのか、とは最近ミステリを読んで思うことだけど、この作品にも声を大にして言いたい。

後味悪けりゃそれでいいのか!?

申し訳ないけれど、この主人公・亜紀にはまったく何の魅力もなくて、
美形であることはそりゃ確かに魅力だろうけど、実際亜紀の顔が、小説読んでる私に見えるわけじゃないし。

なので、私にとって亜紀は得体の知れないイヤな女でしかなく、それはもう虐待がどうのこうの…っていう域とはまったく話が違うんじゃ??
と、疑問に思える。
そのせいで、なんと言うかラストが安っぽく思えてしまうのはどうしようもない。

虐待をされたからああなったのではなく、亜紀はもともと持ってたものが環境によって暗く大きく花開いた感じがするんだけど、
それが上手く虐待の連鎖の結果にすり替えられているような気がして、私はどうにも読後感が悪いのですよね。
3日、東京国際フォーラムにて開催中の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2016」に行って来ました。



と言っても、そうだ、ラ・フォル・ジュルネ行こう!! 私その日、東京にいるじゃん!!
…と思いついたのが先週の金曜。

当然ですが、これ聴きたかったよ…っていう公演は既にチケット完売。
空席有りの公演の中から、アルデオ弦楽四重奏団の「ハイドンと自然」を購入する。





私にとって、ハイドンと言えば村上春樹の『海辺のカフカ』のこの一節。

「ハイドンはある意味では謎の人です。彼が内奥にどれほどの激しいパトスを抱えていたか、それは正直なところ誰にもわかりません。しかし彼が生まれ落ちた封建的な時代にあっては、彼は自我を巧妙に服従の衣で包み、にこやかにスマートに生きていくしかありませんでした。そうしなければ彼はきっと潰されていたでしょう。多くの人々はバッハやモーツァルトに比べてハイドンを軽く見ます。その音楽においても、生き方においても。たしかに彼はその長い人生をとおして適度に革新的ではありましたが、決して前衛的ではありませんでした。しかし心をこめて注意深く聞き込めば、近代的自我への秘められた憧憬をそこに読み取ることができるはずです。それは矛盾を含んだ遠いこだまとして、ハイドンの音楽の中に黙々と脈打っているのです。たとえばこの和音をお聞きください。ほらね、静かではありますが、少年のような柔軟な好奇心に満ちた、そして求心的かつ執拗な精神がそこにはあります」

そんなことを思い出しながら聴くハイドンの曲は、休日の朝のぼんやりした私の頭の中で、
「うんうん、もういいよ、それで間違ってないよ、それが人生ってもんだよ」と、実に私に都合よく心地よく変換されていくのであった。
(´∀`;)

この演奏でアルデオ弦楽四重奏団のヴァイオリン奏者、梁 美沙氏にすっかり魅了されてしまい、ああ、この人のブラームスの「雨の歌」が聴きたかった!! と、本当に残念に思う。
(同日11時15分からの公演にて演奏。チケット完売)

午後からは他にも予定があったので、その後は企業ブースで買い物したり、無料演奏を聴いたり。
管楽器のDACさんでいただいたエコバッグが無性に嬉しい私なのでした。ありがとうございます♪
(●´ω`●)ゞエヘヘ



ゆるされている。世界と調和している。
それがどんなに素晴らしいことか。
言葉で伝えきれないなら、音で表せるようになればいい。

「才能があるから生きていくんじゃない。そんなもの、あったって、なくたって、生きていくんだ。あるのかないのかわからない、そんなものにふりまわされるのはごめんだ。もっと確かなものを、この手で探り当てていくしかない。(本文より)」

ピアノの調律に魅せられた一人の青年。
彼が調律師として、人として成長する姿を温かく静謐な筆致で綴った、祝福に満ちた長編小説。
(Amazonによる)

2016年本屋大賞受賞作。
本屋大賞=本屋さんが売りたい本である。それはわかってた、わかってたのに。

またやられた!! (´Д`)

調律師の青年の成長物語である。彼が調律するのは、ピアノ。
美しくいい話です。
それに「つまらなかった」などと感想を書くのは、人の心も音楽もわからない無粋な人間そのものに思われそうで、さすがの私も非常に勇気がいるのである。

でも、それならそれで結構、私は感性乏しいつまらない人間で結構です。
ちっとも面白くなかった。
エピソードも唐突で薄っぺらなものばかりだとしか思えず、私にはこの小説からは何も音楽は聴こえて来ない。

「村上春樹のドライさと湿り気。小川洋子の明るさと不穏。二人の先行作家の魅力を併せ持った作品です」
と、本の帯に評論家の先生が書かれているが、ちょっとそれはいくらなんでも。

しつこいけれど本屋大賞という大きな話題になる賞をとって、実際レビューでも高評価の多い作品なので、私の感性がおかしいという可能性も否定出来ない。
でも、私にとっては何も響いて来ない作品。
読んで時間の無駄だったと思う。

14日の夜、突然スマホが鳴り出す。あれ、何の音だっけ!?これ?咄嗟に思い出せず。
「地震です地震です」そう繰り返す人工音声に、ようやくその逼迫した事態を知る。

そしてゆらゆらと揺れ始める室内。

そこから始まった今回の大地震。そのあまりの被害の甚大さに、ただただ悲しくなる。
どうか1日も早く余震が落ち着きますように。
被災された方々にいつもの日常が戻って来ますように。

そして、また、村上春樹氏のカタルーニャ国際賞受賞スピーチを思い出す。
自分が読み返すために、その抜粋を貼ることにします。
以下、スピーチ抜粋。



日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。

 台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。

 にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。

 なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。

 日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。

自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。

 どうしてか?

 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。

 そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。

 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。

 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。
長崎へ行って来ました。
昨日の春の嵐が嘘のように良いお天気。

まずは腹ごしらえから。


中華街にある京華園さんのニラパンメン。
これ、とても美味。


豚角煮まんじゅう。長崎といえば、これを食べないと。

他にも食べたんだけど、後は省略。
食べた後は長崎散策。


オランダ坂。


大浦天主堂。


「ここにいる皆の心はあなた様の心と同じです」
「サンタマリアの御像はどこ?」
信徒発見記念碑。

遠藤周作氏の『女の一生 キクの場合』にもこのシーンは登場します。
学生時代、これを読んで号泣したなぁ…と過ぎた日々をふと懐かしく思い出したりする。






グラバー園から。


西坂公園の二十六聖人記念碑。
「人若し我に従はんと欲せば 己を捨て 十字架をとりて我に従ふべし 」


長崎には、本当に久しぶりに行きました。
美味しい食べ物はいっぱいあるし、コンパクトに美しい街なのですが、
教会から足が遠のいているとはいえ、カトリックの洗礼を受けている私は、その歴史のあまりの重さに、どうして良いのかわからなくなったりもするのですね。

帰り道、大村湾に沈む夕日がとてもきれいでした。
(画像ないですが)
楽しい1日は早く終わっちゃうね。