これまで、私はヨガを習ったことがきっかけで、たまに開催されるワークショップ等で仏教・禅などにも触れる機会がありました。
その後、私は関節リウマチを発症し、右肺に直径1cmの腫瘍があるとわかった時は、「こんなに一生懸命に生きてきたのに、なんで私がリウマチだけでなく、腫瘍が生じるんだ。私は不幸だ。死にたい。」等とマイナスなことばかりを考えていた時期もありました。
しかし、暫く闘病生活を続けてきた後、色々とやりたいことを思い出したり、旦那さんのことを考えると、軽々しく死ねないと思い直しました。
そこで、改めて、生きる意味や幸せについて考えたりしたことがありました。
リウマチに限らず、人はガンや難病等の重たい病気、もしくは事故により体が全く動かせない状態になってはじめて、生きる意味や幸せについて深く考えるようになるんじゃないかと思います。
さーちゃん、何事も真剣に、深刻に考えすぎるからね。
生きる意味や幸せの概念は、とても難しいテーマです。
私自身はお坊さんや教会の神父さんや哲学科を専攻しているわけではないので、偉そうな事は言えません。
それに、私はあまり頭はよくないので、難しい哲学は本当に苦手です(笑)
仏教や禅のワークショップの資料・ノートを読み返したりして、漫画のような形でまとめることができたので、前々回のブログ記事から、私なりに生老病死や生きる意味や幸せについてブログに掲載しようと思いました。
僕も哲学科を卒業したわけではないけれど、生きる意味や幸せなどの哲学は昔から興味があって、たくさん本も読んできたし、得意分野だよ。
いつも難しそうな本を読んでいるもんね。
まぁでも、この辺の話は本を読んで頭で理解するというよりは、むしろ実感を伴った体験として感じることが大切だと思うけどね。
えーよく分からないよ・・・・・・
さて、まーさん。病気になったり、肉体が衰えていく中でも、人はなぜ生きないといけないのでしょうか?
また、嫌な職場に行き、やりたくない仕事や苦手な上司と関わったりとたくさんの嫌なこと・苦労を抱えて苦しみながら、なぜ、人は生きていかないといけないのでしょうか?
生きるのが辛い人達は、人としての生きる意味がわからないから、生きるのが苦しいのかな・・・・?
人としての生きる意味?
普段何気なく生活していると、目の前の事で精いっぱいになって、そういう事を考える暇もないよね。
しかも人としての生きる意味なんかあまり考えないで生活できてしまうのが現実だよね。
でも目の前のことに気を取られてしまってばかりだと、本当に大切な事が見えなくなってくるんだ。
本当に大切な事?
なぜ生きているのか?という、さーちゃんのその疑問に対する自分なりの答えだよ。
よく例えとして使われるのは、車のカーナビだよね。
か・・・カーナビ?
カーナビは目的地を設定するでしょ?
それと同じように人生も目的地、目指す先が大切なんだよね。
目指す場所が決まっていれば、国道だったり、山道だったり、高速道路だったり、色んなルートがあって、それぞれ景色も違うけれど、辿り着く先は同じだよね。
途中渋滞にはまったりするかもしれないけど、進んでいけばいつかはゴールにたどり着くはず。
でも目的地を決めずに車を発進させてもどこに行っていいのか分からないまま、渋滞にはまったり事故に遭遇したり、そうこうしている間にガソリンが無くなったり、そりゃ疲れるし苦しいでしょ?
運転に必死になってるけど、目的地が分からない。これが苦しみを生む一つの原因なんだと思うよ。
なるほど。
あ、でも自分で自分をナビするんだよ。
他人にあれこれ指示されていたら、結局自分の目的地には進めないからね。
気を付けて、出発進行~!!
幸せってなんだろう??リウマチになって気付いた事。
人は、自分や家族が病気になったり、家族の死別を体験したりします。また、嫌な人と接したりしながら、社会生活を営んでいかないといけません。生きる目的を持っていないと、病気や嫌なことに振り回され、やがては疲弊し、生きることを苦しいと思ってしまうかと思います。
さて、幸せとは、なんでしょうか?
結婚して子供をもうけることでしょうか?末永く夫婦仲良く暮らすことでしょうか??
毎日、美味しいものをたくさん食べることができることでしょうか??それとも、お金をたくさん稼いで豊かに暮らすことが幸せでしょうか???
私は、幸せは主観的なもので、人によって感じ方も捉え方も異なるので、幸せの定義は非常に曖昧だと思います。
学校の道徳や倫理の時間で、幸せとはどんなものなのか、幸せになるとはどうすればよいのかという教育がされてこなかったからね。
教育されてこなかったから、当然マニュアルも教科書もないので、正直よくわからない人が多い気がするよね。
実はこれには一つ理由があります。
何ですか?
学校で先生が教えられるのは答えがある事についてだからね。
幸せとは何かという根本的な問題に対する明確な答えはないし、感じ方は皆それぞれ違うし、テストで点を付けられる問題ではないから。
最近は道徳の授業が始まったようだけど、そこでは教えられているのかな?
まぁ学校で教えられようが教えられまいが、僕はさーちゃんと結婚してとても幸せだよ。
・・・・どうも・・・・。
ところで、いくらお金を稼いで貯金がたくさんあっても、幸せな人と幸せで無い人がいると思います。この違いはなんでしょうか?
お金を稼ぐことについては、そこそこの収入が最も幸福度が高いみたいだけど・・・・。
どちらの人生を選ぶ?後悔する人生とやりきった人生。
幸せは、主観的な価値観に左右されるため、人によって感じ方が異なると思います。
しかし、死の間際になって、「●●したかった」、「▲▲に行きたかった」とひどく後悔しながら、死を迎えるのは不幸な気がします。
「▲▲・・・・・・」あぁ、ピラミッドね。
まぁ、もしさーちゃんが死ぬ寸前に「ピラミッド」・・・とか言われてたら、僕はもうお迎えが来たかもしれないって、混乱するけど・・・・・・
確かに死ぬ寸前になって、「あれもこれもしておけば良かった!!!」と後悔してしまうのは、ある意味、最大の不幸なのかもしれないよね。
私は世界史が好きだったので、海外旅行で歴史的建築物や世界遺産を観るのがとても好きです。
これまでに行ったことがないエジプトのピラミッド、カンボジアのアンコールワット、ギリシャのメテオラ(天空の修道院)・アクロポリス、インドのタージマハルには、死ぬ前に行きたいと思っています。
え?まだまだ行けると思うけど。
リウマチだと世界旅行できないの??
リウマチになった当初は、歴史的建築物や世界遺産までの道のりは、きちんと整備されているわけではないから、上記の国々に行くことを諦めていましたが、体が不自由でも行こうと思えば、行けるものですよね。
そうだよ。
人はどんな状態でもやろうと思えば、なんでもできるよ。
好きなことややりたいことをしている人達は、生き生きしていますね。
やりきった人達は人生に悔いは残らずに、死を迎える時は幸せなんでしょうか?
う~ん・・・・・・自分の人生をやり遂げたのだから、少なくとも不幸ではないと思うよ。
リウマチは人生を変えるチャンス
前回の記事で、自分のやりたいことををやりきって最後に満足して大往生を迎えるか、自分のやりたいことを我慢してほどほどの人生を歩んで最後に後悔するか・・・・、どちらを選ぶかはその人次第だと書きました。
人生の目的や、やりたいことに気づくことができたら死の間際で後悔のない人生を送ることができるのかもしれませんね。
たとえ、病気や体が不自由であったとしても、人としての目的ややりたいことに気づくことはできると思うよ。
自分の人としての生きる目的ややりたいことに気づくには、自分の内側(心の声)に、耳を傾ける必要がありますね。
まさに、それって瞑想だよ!
さーちゃん、瞑想が苦手かもしれないけれど、頑張って欲しいなぁ。
病気(私の場合、関節リウマチ)が、自分の内側(心の声)に耳を傾けられるように、何かしらのメッセージとして現れたのかもしれませんよね。
そうだね。
もし、”幸いにも”リウマチにならずにこれまでと同じ生活を続けていくことを想像してみなよ。
それって、結構辛いことじゃないかな?特にさーちゃんにとっては。
そうですね。
あの職場で悶々としながら辛い日々を続けて、生きる本当の目的に気が付かずに生きていくということを考えるとゾッとします。
やっぱり自分の内側(心の声)に、耳を傾ける必要がありますね。
そうだよ。
そして自分の声に耳を傾けるには瞑想が効果的だと思うよ!
へ~
最近、色んな場面で瞑想の効用などを耳にする機会が増えてきました。
でもなかなか瞑想を実践していくことは難しいです。
たしかに、いきなり瞑想が深まるということは無いから、ある程度期間が必要だと思うよ。・・・・・・
いずれにしても、リウマチになったという事が、これまでのさーちゃんの生き方を見直す機会となりました。
僕は、さーちゃんがリウマチになったのは、決して偶然の出来事なんかではなく、必然的な出来事なんじゃないかと思います。
リウマチは自己免疫疾患と言われています。
でもなぜ免疫機能が自分に牙をむくようになったのか?
それは職場に行く事を辞めさせるために起こった体の防衛反応だったんじゃないかと思います。
さーちゃんは責任感が強い事もあって、人一倍仕事を頑張っていました。
でも心はその仕事から一刻も早く離れたいと思っていたに違いありません。
そうした心の声を聴こうとせず、無理に仕事を続けた結果、体は最終手段として「職場に行かないで済む方法」をとったのです。
関節リウマチという形によって。
リウマチをきっかけとして、さーちゃんの人生は大きく変わることとなりました。
リウマチは人生を変えるチャンスでもあったのです。