自分は戦争を美化するつもりも推奨するつもりもありません。
あくまで戦争はあってはいけません。この大前提にて書きます。
実際のコメントは長いものばかりなので、
文字数の都合上、掲載を控えます。第二次世界大戦、評価で検索してみて下さい。
驚くほど多くの方が日本に対して肯定的なコメントを残しています。
さて、このコメントを読んで行くうちに、殆どの日本人は涙を抑えられなくなると思います。
多くの方々が亡くなったが、その方々が残したものは今の日本の平和だけではなかったって事です。
こんなコメントを残した人々がいれば、亡くなった方々も少しだけ浮かばれるような気がします。
戦争の悲惨さ、二度と起こしてはいけないって事だけをクローズアップして伝えてしまった結果です。
歴史を正確に捉えるためには、1つだけの情報源だけでなく、
色々な角度から眺めて見るのも良いと思います。
さて、オープニングはここまで。次回からは定着してしまった有名人を違った角度で書きます。
織田信長
トップバッターほこの方です。
どちらかというと女性にはストイックなイメージのある織田信長ですが、
意外にも分かっているだけで息子が13人、娘は10人いました。
てことは、当然側室は複数。正室の帰蝶、信忠、信雄の母である側室の吉乃は有名ですね。
ほかにお鍋の方、稲葉一鉄の孫娘など、諸説あるため正確な人数は分かりませんが
10人近い側室がいたようです。ここで面白いのは側室の素性。
家康は雑食、秀吉は由緒正しい血筋に偏っているのに対し、
信長の側室は大名の家臣クラスの武士の娘が多い。まさに秀吉と家康の中間です。
そして、吉乃をはじめ、後家さん率が高い!ここて勝手な解釈を追加します。
信長の母である土田御前、うつけ者の信長に愛想を尽かし弟の信行ばかり可愛がってました。
まだ多感な時期に母親の愛に飢えていたってことです。
後家さんが多いのはその影響かもしれません。秀吉の側室は高貴な生まれが多いのは、出自が低いことに対しコンプレックスを持っていたなんて説もありますね。だとすれば信長のそれもうなづけます。家康は?はい、現実主義の現れだったんではないでしょうか?その結果かどうかわかりませんが、家康の息子、それぞれちゃんと特技を持っていて、丈夫で出来がよかったですね。
北条早雲
生前この方をそう呼んだら、誰だそれ?とびっくりされるでしょうね。
北条を名乗ったのは、息子の氏綱の代から。上杉氏に対抗するため鎌倉幕府の執権北条氏にあやかってます。
生前は、伊勢盛時、号として早雲庵宗瑞を名乗ってます。
さて、一介の素浪人だった若き日の早雲、妹が今川に嫁に行っていた縁から今川のお家騒動を解決し、
甥にあたる今川氏親を相続させ、お礼に興国寺城を手に入れて初めて城持ちになります。
と、ここでこれらはダウト!そもそも今川家は足利の分家、しかも将軍継承権まである家柄です。
妹の北川殿は今川義忠の正室です。一介の素浪人の妹がなれる身分ではありません。
早雲の出自は、れっきとした室町幕府の要職にあった伊勢盛貞の息子のようです。
まあ、その時期の室町幕府の要職は権威はあっても権力は無かったので、
そう言った意味では素浪人と同じだったのかもしれませんが。
そして、研究が進めば、興国寺城が早雲の最初の城ではないと言った定説が生まれるかもしれません。
焼津市の石脇城がもしかしたら最初の城かも知れません。今後の研究を待ちたいところです。
保科正之
誰それって?徳川秀忠の御落胤です。
そもそも恐妻家の秀忠に側室がいたのも十分意外ですが。
とにもかくにも、正之は保科家に預けられ、育ちます。
さてこの保科正之、家光や忠長と母親が違います。
真偽の程ははともかくとして、同母兄に対し俺は弟だ!オーラを出しまくった忠長。
彼とは違い正之は家光に対し常に臣下として振る舞い、それが家光からは高い評価を得ます。
そして、トントン拍子の出世をします。
最初は高遠3万石から、最後には会津藩主となります。
仲の悪かった家光と忠長の両方と仲良くやってたようです。
名君として数々の逸話を残してますよ。
江戸城の天守が振袖家事の後に再建されなかったのも、
彼が火災からの復興を優先させたためとか。
はい、のちに残る会津の家訓は正之が定めたものです。
さて、何が意外かって?
その1、正室に実の娘を殺された。
側室の娘が正室の娘より良い家に嫁いだことから正室が嫉妬し、
側室の娘を毒殺しようとしたところ、侍女が我が娘に毒入り膳を置いてしまったため、
正室の娘が死ぬこととなった。
その2、会津は松平だけど、正之は死ぬまで保科姓を通した。
幕府は家光が弟として扱った正之に対し、徳川の親戚である松平姓を名乗る事を許可しましたが、
育ててくれた保科家に恩義を感じ、松平を名乗らなかった。
3代目から松平性になります。
彼の残した家訓は代々受け継がれるわけですが、幕末の松平容保は、
正之の子孫ではありません。高須松平家、つまり尾張徳川家の分家からの養子です。
武田信玄
名言逸話、色々ありますよね。人は城、人は石垣。
巧みな外交戦略で甲斐、信濃を我がものにし、一方では治世に辣腕を振るう。
ひとたび戦となれば無敵の騎馬隊で敵を蹴散らし、徳川家康でさえも討死しかけた。
子供は男女合わせて10人以上、それなりに側室もいたようです。
そんな武田信玄にも意外な一面があります。
彼にもラブロマンスがあったのです。
しかもお相手は女性ではなく男。
高坂弾正、すなわち高坂昌信。実際には春日虎綱という名前ですが、
ややこしいので名前の通った高坂昌信とします。そう、武田四天王の一人です。
農民からの異例の出世は信玄の夜のお供から始まったのです。
さて、ロマンスだけでは意外性が足りませんね。信玄が高坂昌信に送ったラブレターです。
これが信玄のイメージとは全く違う。
別の男にうつつを抜かし、高坂がすねた場面でしょうか。
別の男に手を出そうとしたけど拒絶された。何もしてない。
嘘じゃない、これからもそんなことしない。かいつまんで言えばこんな感じですが、
信玄像からは想像もできない女々しい文面です。
戦国の英雄も、どこかで子供にならなきゃやってられなかったのかもしれません。
徳川秀忠
家康の影に隠れてしまいがちな存在ですね。
殆どの方々は堅実な二代目。出来心で出来てしまった子供を会いもせずに
保科家に養子に出した恐妻家。父家康からは何かと大目玉を食らう。
そして関ケ原の戦では上田城で38000人の大軍で、僅か2000人の真田親子に翻弄され、
見事に引き立て役、果ては父家康に会ってももらえなかった。
将軍になっても父家康が駿府で大御所となって二元政治、
家康からは将軍としての資質を一時は疑われる。
そんなイメージで捉えている方も多いのではないでしょうか。
秀忠の目立った功績、政治面ではなかなかの方ですが、どうもパッとしません。
さて、そんな秀忠の意外な一面を掘り返してみましょう。
秀忠の遺体には銃痕があった!つまり、戦では先陣を切っていた可能性があります。
体格にも恵まれていたようです。
政治家としても辣腕を振るいます。本来の恐ろしさとも言うべきか。
まずは福島正則はじめ40家以上を改易、娘を天皇に嫁に出す、
紫衣事件にかこつけて天皇を退位させ孫を天皇に、そしてキリシタン弾圧。
御三家の設立。どれも徳川体制の確立に寄与するものでした。
え?他にも出来の良い兄弟はたくさんいたのになんで末っ子に近い3人を御三家にしたかって?
他の兄弟は全て他家に養子に入ってますよ。え?松平も何人かいるでしょって?
実は、徳川の親戚筋の松平家に養子に入ってたんですよ。
松平定信
歴史の教科書でもおなじみ、寛政の改革を手掛けた老中です。
おそらく皆さんお持ちのイメージは、改革を行った老中、
厳しすぎる改革の推進により短い期間で失脚、こんな感じではないかと思います。
でもこの方の出自、ご存知でしたか?
白河藩、つまり小峰城主。はい、それはそうです。
父は田安宗武。暴れん坊将軍、徳川吉宗の息子、つまりは吉宗の孫です。
城を持たない田安家ですので、幼少時は江戸城に住んでいました。
田安家の六男であるものの、兄は早世、または凡庸、病弱であったので
もしかしたら田安家の当主、ひいては将軍になっていたかもしれない人です。
田沼意次の賄賂政治を批判したことから田沼の陰謀により松平家に養子に出された結果、
その夢は潰えてしまいました。そのため、定信は田沼意次を恨み、
そのくせ幕閣の中心にいたいがために田沼を賄賂を送るといった行動にでます。
さて、老中としての松平定信は失脚しましたが、白河藩主としての彼は名君です。
飢饉の際にも一人も餓死者をだしていません。そして、城ファンにとっての最大の功績は、
小峰城の建物の絵図面を起こしたことです。
家臣が書いたのですが、藩主の許可もなしにそんなものを作れるはずがありません。
絵図面があれば、避雷針もなく防火、消化設備の貧弱な当時において
破損した建物の修理で時間と費用を大幅に節約できたはずです。
それが現在の小峰城三階櫓復元に役立つことになりました。
今は法律の厚い壁に阻まれて、明確な資料無しでの城再建はほぼ不可能なんです。
足利、徳川、執権北条の共通点
一見脈絡の無さそうな3つの政権、実は意外な共通点があったりします。
まずは政権の成立です。いずれも短期政権からの簒奪です。
北条は源氏から、足利は建武政権から、徳川は豊臣です。
次に、体制を固めたのは北条はルールブックを整備した泰時、
足利は邪魔な守護大名を征伐し、貿易により巨利を得た義満、
徳川は幕藩体制を完成させた家光。そう、体制を固めたのはいずれも3代目。
次に、中興の祖というか、中だるみを引き締める役の人が真ん中あたりで出現してます。
北条は元の襲来を退けた6代時宗、足利は幕府の権威回復を目指した6代義教、
徳川は米将軍と言われた8代吉宗。この3人、更に意外な共通点が。
時宗の場合、執権北条氏代々の、後ろにつくはずの時の字が前にありますよね。
これは、北条得宗家の家臣って意味合いの名前です。
吉宗は、家の字がついていませんよね?つまり本流の嫡男ではないってことです。
ちなみに、吉の字は徳川綱吉から一文字もらってます。
ついでに、吉宗は綱吉に恩を感じていたので将軍になっても改名しませんでした。
義教は?うん、将軍になる前は出家してたから改名してます。
そして、この方はくじ引きで将軍になってます。
つまり、3人とも本来の流れで跡継ぎになったわけではないってことです。
そして最後に、幕引きはいずれも15代で終わってます。高時、義昭、慶喜です。
そして、これが皮肉なことに、北条が牛耳る鎌倉幕府にトドメを刺したのは
六波羅探題を滅ぼした足利、そして鎌倉府を制圧した徳川の先祖の新田だったのです。
細川藤孝
細川氏は元々足利の分家です。
足利の分家は他にも沢山ありますが、
吉良、吉良の分家の今川、一色、斯波、畠山とか。
幕臣でありながら後に明智光秀同様に織田信長に仕える。
関ヶ原の戦いの時には田辺城にてわずか500の手勢で
西軍の15000の大軍の攻撃をしのぐ名将でありながら、
和歌や茶の湯、蹴鞠にも通じた一流の文化人。
皆さんの持つイメージはこんな感じではないでしょうか?
藤孝は、足利義輝が暗殺されるまでは順風満帆の人生でした。
生まれも良く才覚ある彼は幕府内でも地位を得る。
32歳の時に足利義輝が暗殺され運命は一転。
それからは義輝の弟の義昭を将軍にするために流浪の旅に出る羽目になります。
織田信長と知り合った後は皆さんご存知の通りですね。
さて、この藤孝にも意外なお話はあります。
はい、実は足利義晴の子、つまり足利義輝の兄弟との説があります。
藤孝の父親の三淵晴員に足利義晴の側室を下げ渡し、その側室から生まれたのが藤孝です。
昔は主君が家臣に側室を下げ渡すって事が行われてたんですね。
その際に懐妊してたってお話。
この手の話多いんですよね。
平清盛の天皇ご落胤、斉藤義龍の土岐氏ご落胤などなど。
こちらは、足利義輝の兄弟説を支持します。
あってもおかしくないし、断絶した義昭嫡流の事を考えたらそうあって欲しいと思ってしまいます。
足利義満
桔梗やと共に一休さんに散々やっつけられるやられキャラ、
実態は、長きにわたって続いた南北朝の争いを終結、
対抗勢力となり得る有力大名の征伐、明国との勘合貿易にて巨万の富を得る、
そして極め付けは室町幕府の象徴、花の御所。さらには北山の金閣。
足利氏最大の権力を持った将軍、この辺りが皆さんの認識ではないでしょうか。
一休さんのイメージが強い方は、そそっかしくてどこか憎めないけど、
怒れば怖い鬼将軍、それでいて思いやりもある、そんな風に捉えているのかも。
さてその義満、明国に対して日本国王と名乗ってます。
明国からは、家来なんぞと取引なんぞせんわ!と突っぱねられた結果ですが、
そこから天皇の位を簒奪しようとしてたなんて説もあります。
出家したのも、家来という立場では無いことをアピールしたかったからかも。
さて、ここで義満の意外です。「日本国王臣源」と名乗ったのです。
早い話、明国の家来の日本国王の源(足利の姓は源氏です)
さて、家来としての貿易は朝貢貿易です。わかりやすく言えば日本は貢ぎ物を送り、
明国からは返礼品を送る。
北条時宗が守りきった日本の意地を義満はあっさりとひっくり返したのです。
君主としてプライドは無いのか?
いえいえ、実は朝貢貿易の場合、貢ぎ物に対しては、
明国としては威信に関わるから何倍もの返礼を返すのです。
名より実を取ったのですよ。ちなみに、明国は各国に対する返礼が経済を圧迫してたとか。